|訳者あとがき|
 本書をひもとくと、表題の「伝説の馬 100頭(100 Chevaux de l使ende )」の通り、馬の歴史上、多岐にわたる分野で、選ばれた馬100 頭の個別の馬ないし品種を通して、馬と人間の相互扶助について、得難い情報がたくさん盛り込まれていることに気がつく。

 その内容は、チャンピオンとして、世界の競馬場で活躍した脅威的な競馬馬や繋駕速歩馬と勝利を共にした騎手や調教師との関係、オリンピックやそのほか国際的な馬場馬術とか障碍飛越の競技で優秀な成績をおさめた馬と友情を分かち合った選手たち、また歴史的に勇名をとどろかせた勇猛な馬と当時の英雄や豪傑、さらに現在我々の生活を潤してくれている幾多の馬の祖先や野生馬として人知れず静かに生息している馬、一芸一能に秀でた特殊なタイプの馬、スポーツの分野において、力量を発揮している幾多の馬の品種、芸術的な馬術で世界的に名を馳せるエリート校、神話の世界、北欧や特にギリシャ・ローマの神話の中でめざましく活動した馬と神々のドラマ、そのほか馬を題材にした絵画や彫刻の芸術作品、文学的著作物や小説の主人公として取り上げられた馬、映画の主役に抜てきされ、観客を勇気づけた馬、ゲームや玩具に姿を変え、今も老若男女を問わず、娯楽を求める人達を楽しい世界に導いてくれている馬、さらに機械文明の発達の土台として貢献した馬の実情など、枚挙にいとまがない。

 人類以外の動物で、我々人間の生活に、直接、これほど役に立ってくれている動物が他にあるだろうか。この本には、馬と人間のかかわりの全貌が分かっていただけるだけの情報が、盛り沢山に含まれている。ここに描かれている馬、1頭、1頭を通じて、馬が人間に如何に奉仕してきたか、また人間が馬の生存にどのように貢献してきたかを知ることができる。いつの時代でもそうであったように、今後とも馬は我々の僕であると同時に、掛替えのない友人であることを忘れてはならないと思う。

 ここで指摘したいことが一つある。それは1988年に行われたソウル・オリンピックの大賞典障碍飛越競技で、フランスのピエール・ドュラン選手が「ジャプル」に騎乗し、優勝したとある。が、75年前、日本の馬と選手が金メダルを射止めていたことが、忘却の彼方に追いやられてしまったのではなかろうかと危惧するので、ここで「伝説の馬」として取り上げたい。1932年、第10回ロサンゼルス・オリンピックの大賞典障碍飛越競技でウラヌスに騎乗された西竹一氏(当時陸軍騎兵中尉)が見事に優勝された。これにはエピソードがある。私が関西大学の馬術部に在籍中、京都は宇治の金鈴会で合宿訓練が行われた。その際、我々は今村安先生から馬場馬術、障碍飛越(イタリー方式)及び高地騎乗のご指導を受けた。これに加え、合宿期間中、毎日、2時間にわたり馬に関する講義で、先生から次のお話を伺った。「西中尉はロサンゼルス・オリンピックの大賞典障碍飛越の競技で、出番を待つ間、観客の歓声などで興奮のるつぼと化した競技会場の雰囲気を感じとり、自分の馬は神経質でとても落ち着いて走行できないと判断され、急遽、騎乗馬を図太い神経の持ち主ウラヌスに変更された。ウラヌスは無失点で完走し、立派に優勝した。これでも分かるように、馬術では馬が主役で、それには調教が極めて重要である。」と馬の調教の大切さを強調された。万一、西中尉が何らかの故障で騎乗できない場合には、今村安先生がウラヌスで出馬される予定だったそうである。銀蹄拾遺(学生馬術今昔)第X部 京大馬事史略(荒木雄豪編)には、「今村安先生(陸軍士官学校25期)は1929〜1931年にヨーロッパに、またイタリア騎兵学校に留学された。帰国の際、ソニーボーイ(イギリス)、ウラヌス、ファーレーズの3頭を購入、イタリア馬術方式を本格的に騎兵隊に導入された経緯がある。1945年3月22日、西中佐は硫黄島で戦死(享年42歳)され、同年2月28日「ウラヌス」は獣医学校病馬厩で26歳で死亡(老衰)した」との趣旨のことが記されている。オリンピック会場でウラヌスと共に日章旗を掲げられた西竹一氏が硫黄島で花と散っていかれたことは、誠に残念である。馬術の目的は競技会で成果をあげるだけではないが、近い将来、西大先輩に続き、オリンピックで賞を手にし得るだけの馬と選手が現れることを期待してやまないのである。
 私は現在まで、「乗馬の愉しみ」と「乗馬の歴史」を邦訳したが、前者は馬術の訓練ないし調教に関する解説書であり、後者は馬と人間のかかわりを説明した本で、言うなれば、技術的なことが多く

含まれているので、原文から離れることなく翻訳したつもりであるが、今回の「伝説の馬100頭」は各馬の項目には神話や小説、映画なども含まれ、全般的に内容が物語り風なので、訳文も読みやすさを優先したのでそれなりに手心を加えたことをご了承いただきたい。
(以下省略)
                2007年2月5日 吉川晶造


 
ウィンドウを閉じる