|はじめに|
 我が国においても近ごろは乗馬が盛んとなり、そのための入門書が数多く出ていることは誠に喜ばしいことであると思う。私の若かった時代には馬術書が非常に少なかったが、その中で入門書として入手しやすかったのが日本陸軍発行の『馬術教範』であった。これには中級程度までの馬術教育と新馬調教に関して必要なことが書かれており、手軽で便利な小冊子であった。
 この『馬術教範』は陸軍における馬事訓練と軍馬調教のためのものではあるが、現在の乗馬クラブや学校の馬術部における入門書としても手頃であり、内容的には必要なことはほぼ書かれていると思う。また、同じく日本陸軍発行の『馬事提要』には、馬の外観、管理、飼養、構造、疾病、相馬等に関して、馬乗りにとって役立つと思われることが書かれている。
 『馬術教範』については日本馬術連盟から昭和 2 年版のものが復刻出版されているが、これには原本にはなかった句読点がつけられてはいるものの、文章はほぼ元のままであり今の若い人たちには読みにくいと思われる そこで、昭和 13 年に改訂された『馬術教範』の最終版@に昭和 6 年に改正された『馬事提要』の最終版の一部を   〔付〕として加え、これらを多少でも読みやすいように 文体を改め、また軍隊馬術特有の内容については割愛し、民間馬術として必要と思われる内容を一部補足したのが本書である。馬術入門書として利用して頂ければ幸いである。
 馬術は紀元前 4 世紀頃のクセノポーンの時代から戦闘用の技術として研究され発達してきたものであり、騎兵の乗馬技術の優劣が戦場における軍の勝敗に非常に大きな影響を持っていたことは古来の戦史を見れば明らかである。したがって世界各国の陸軍において乗馬部隊の訓練と軍馬の調教、あるいはその管理に懸命の努力が払われてきたことは当然であり、わが国でそのための教科書として作られたのが『馬術教範』であり『馬事提要』である。
 日本陸軍におけるこれらの制定と改訂、およびそれに関連したと思われる事柄を、現在私の手元にある乏しい資料から拾ってみると次に挙げる通りである。
 『馬術教範』においては、兵教育および軍馬調教という立場から馬術的な検討が重ねられてきたのであるが、昭和 2 年版までは兵教育においても古典馬術の基本である「収縮」に基づく考え方が基礎となっていたと思う しかし一方においては、兵教育および軍馬調教という目的に対して「収縮」が果して必要であるか否か、あるいはこれを教えるための時間と手間を省いた思い切った軍隊馬術の簡易化の方が優先するのではないか、という観点から、当時軍隊馬術の簡易化に大きな成果を挙げていると言われていたイタリアへの山本、城戸、今村 3 氏の留学が計画され、その検討結果が昭和 13 年の改訂となったものと考えられる。
 このような経緯から、この版においてはそれまでの版とは異なり、「第 1 編 兵教育(本書では初級教育)」と「第 4 編 幹部教育(同・中級教育)」とが明瞭に区別されることになった。即ち、その『馬術教範編纂理由書』に「兵教育及新馬調教ニ於テ馬ニ収縮ヲ要求スルコトハ相当困難ニシテ且実役上必ズシモ其ノ要ナキヲ以テ」とあるように、例えば初級教育である第 1 編においては、前肢旋回と後肢旋回の区別をなくして単なる旋回とし、駈歩における手前も重視されなくなった。しかし馬術的に必要と思われること、例えば二蹄跡運動や踏歩変換等は第 4 編に残されている。したがって単に逍遙騎乗や簡単な障害飛越程度でよいという人であれば「初級教育」の編だけを読めば十分であり、更に進んで馬術を学びたいという人であれば「中級教育」の編を研究するべきであり、また自分で新馬の調教をしようとする人のためには「第 2 編 新馬調教」が設けられている。
 しかし、この版では兵教育の速成と簡易化によるためか、大勒使用の説明が主となっているが、昭和 2 年版においては、水勒と大勒とを区別して説明する場合、「易 より難」の原則から水勒による説明の後に大勒による説明がなされている。一方、現在の乗馬クラブや学校の馬術部においては、最初に水勒による基礎教育を行った後に大勒の使用法を教えるのが一般的であると思われるので、本書の第 1 編第 1 章ではその記述の順序を昭和 2 年版に基づくこととした。
 また、昭和 14 年版では重要な項目と思われる「輪乗の 手前変換」および「輪乗の開閉」が省略されており、巻乗および回転半径の大きさも緩和されているが、これらの点についても昭和 2 年版に準じることとした。
 さらに後肢旋回および二蹄跡運動をとり入れながら、前肢旋回の記述が無いのは馬術的に不十分であると思われるので、本書においては第 4 編 第 1 章 第 4 節の「後肢旋回」を「前肢旋回と後肢旋回」とし、昭和 2 年版の「旋回」の部分の記述を転載することとした。
 『馬事提要』については、特に必要と思われる部分のみを〔付〕として抜粋したのであるが、この冊子の全体の構成が分るように、本書の目次には編名のみは省略せずにすべて記載した。
 〔参考 1〕の「初心者用乗馬テキストの例」は、編者の一人である荒木が京都産業大学における体育実技で担当した、全くの初心者を対象とする馬術の授業で長年使用してきたテキストの一部を参考までに抜粋したものである。
 また馬術は、軍隊では個人としてよりも集団(団体)として規律正しく行動するための技術であったが、民間においては個人スポーツとしての技術であると思う。しかしながら『馬術教範』の付録にもあるように、その練習過程では「部班運動」即ち団体で行う運動が主であり、これは現在の学校の馬術部や乗馬クラブなどにおいても同様であろうと思う。この場合、全員が常に均等な距離を保ち、定められた運動図形を一斉かつ均一に描くことはかなり困難であるが、各個人が部班運動を通じてそのための技術を学ぶことにより御術の向上をはかることができる、という馬術における部班運動の意義は大きいと思うので、「部班運動の基本と実施例」を〔参考 2〕と
して付け加えることとした。今後、部班運動の競技が行われることもあるかと思い、これまで京都産業大学において実施した幾つかの課目を挙げておいたので、参考にして頂ければ幸いである。
 平成 12(2000)年 12 月 12 日
荒木雄豪 
 
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