|はじめに|

 去る5月初旬,関西乗馬団体連合会の工藤稔氏がこの訳稿の原本を城戸俊三先生から借用せられて拙宅に持参せられ,会員への配布のためにこれの飜訳のことを申出でられた。私も先年この本を先生から拝借通読して覚え書を作った程であったので,この本の良き馬術指南書なることをよく知っていた。よって悦んでご依頼に応じ飜訳の原稿を連合会に寄附することを承諾した。
 原本記述の主眼とするところは馬術競技であり,特に障害飛越競技のことが詳しい。然るに私はあまり馬術競技に興味を持たない。本格的競技会を見たことすらもないのである。かくして私の飜訳に当ってよるところは辞書のみである。スポーツマンならざる者がスポーツ書の筆を執るということはスポーツの正道ではあるまい。私は先ずこの非難を覚悟せねばならぬ。
 しかも尚且つ私が連合会のご依頼に応じた所以は我国に一般乗馬家のための詳しい御術指南書の乏しい今日,この種の飜訳でも決して無益ではないと考えたからである。ヨーロッパにあっては馬術書の刊行は玉石混合とはいえ毎年実に驚く程多数である。これに反し我国では専門馬術家がほとんど指南書の筆を執られないから,我々は洋書にこれを求めねばならぬが洋書を自由に読破し得る人は既に指南書を必要とせぬ人々であり,学生を初め一般乗馬家はせめて飜訳書にでも親しまねば馬術の国際水準を窺うことすらもできないのではなかろうか。
 書く考え又私も嘗ては連合会の役員の末席を汚した因縁もあるので,机辺数冊の辞書の他に別にたよるもののないにも拘わらず敢えて工藤氏のご依頼に応じることにしたのである。
 辞書といえば私はここに四条隆徳,有坂光威両氏編集の独和馬事小辞典のことに触れざるを得ない。私の手持の数冊の辞書の内,最も多くの馬術用語を求めたのはこの小辞典である。この辞書は1942年の発行で今日では入手ほとんど不可能であるのはドイツ馬書を読まんとする学生諸君にとっては遺憾千万のことである。これさえあれば一通りの馬術書には不自由しない。ドイツ馬書を読むには必携の辞書であり,両氏がかかる縁の下の力仕事に苦心せられたことに対しては今更ながら深甚の敬意を表せざるを得ない。
 私は終戦直後大阪の場末の小さな古本屋で偶然これを求めた。その本屋の前を通ったことさえ真に気まぐれの偶然ではあったが,この偶然なかりせばその後ドイツ馬書を読むことはできなかったであろうし,城戸先生から多くの馬術書を拝借する機縁も結ばれず従って今日まで数冊の馬術書を連合会の会員に示すことも叶わず私の馬術に対する視野は昔ながらに狭いものに止ったであろう。しかも私はかの古本屋の前を通った動機すら今なお思い出し得ない。運命の小戯がここにもあったような気がする。
 尚工藤氏から拝借したイギリス,フランス,ドイツ三カ国語図解辞典(Zdislaw Baranowski編,The International Horsemanユs Dictionary)も参照して多くの便を得たことをここに附記しておく。
 この訳本の読者に先ずことわらねばならぬことは文の生硬にしてしかも冗長なることである。これはもともと訳文の拙にもよるが尚私ができるだけ逐字訳の方針をとったことにもよる。省筆,換骨奪胎の妙は文の内容を体験した者のみ許される。辞書だよりの翻訳では逐字訳がせめて忠実なる執筆態度であると思う。私としてはこれを避けることはできなかった。
 この訳の原本にも他の多くの馬術書と同様,若干の矛盾した記述はある。これは馬という生物相手の運動を取扱う場合には止むを得ぬとせねばならぬであろう。しかし曖昧な表現や読者をしてその解釈に迷わしめるような記述は比較的少い。
 御術説明のむつかしさは主として馬場馬術にあると思われるが,原本は“実用馬術”と表題せる如く馬場馬術に関する記述は比較的少く障害飛越競技や野外騎乗のための記述が多い。二蹄跡運動や高等馬術についての記述は全くないといってよい。これが本書の記述が概ね明快なる理由の一つであろう。その代わり読者がもし馬場馬術について本書に多くを求められるならば,おそらく失望せられるであろう。よろしく他の良書を選ばれるがよい。
 次に原本は初心者にもよくわかるように親切に記述せられてはいるが,馬術用語が何らの説明なく出て来ることが度々あり,説明があってもそれがはるか後章に詳述せられていることがある。例えばLPO或いはA,L,M,Sの級別,後肢旋回,軽速歩,内方姿勢等の諸語が最初に出るところは別段の説明はなく,後に至って初めて詳しい説明がある。よって本書は一通り馬事或は競技会の運営等に通じている人で,しかも或程度正しく馬術を正しく馬術を学んだ人でないと理解に行詰ることがあると思う。少くとも本書は再度通読しないと初心者には充分の理解は困難である。このため私には敢て若干の訳注を施しておいた。訳注は多く脚注としたが簡単なものは本文中に( )を施して記載した。
 其他原本には章節にも挿図にも図版にも一切番号が附してない。しかしこれでは読むに不便と思ったので飜訳に際しては何れにも番号を附した。又図版は原本では要所に本文に相応じて適宜挿まれているが,これは印刷の都合で巻末に一まとめにした。その代り訳注によって参照に便にした。
 又    を施した語句は原本ではイタリック字体のものである。
 固有名詞や外来述語の記し方にはいつも迷うのであるが,およそ次の約束に従った。即ち訳し得ざる語及びなお外国語であると私が考えたものは言語の綴のままを記し,国名その他既に国語となっているものはカナ書きとした。馬術語も外来語と認めたものはカナ書き,なお外国語と認めたものは原語の綴のままである。かくして例えば
オランダ イギリス ストップォッチ オリンピック大会 パッサージ 
サラブレッド Amsterdam Berlin Martingal Pelham Oxer
等の記述となったのである。
 原本には巻末の索引がついている。凡そ記事文の書物に索引のあるべきはむしろ当然であるが,我国では一般にこのことは行われていない。私もこの訳本にこれを附すべきものと知りながら助手なしの飜訳ではその煩に堪えないのでこれを断念した。これは著者に対しても読者に対しても申し訳ないことと思っている。

南大路 謙一(訳者)

 
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