|はじめに|

 人類が宇宙をめざして半世紀。アポロ宇宙船が人類を月に送り、ミール宇宙ステーションで一年二カ月の長期宇宙滞在を実現させたのも昔話となりつつある。そして今、国際宇宙ステーションに一般人が訪問し、六人の宇宙飛行士が常駐し、さらには、月面基地、有人火星探査が現実味をもって語られるようになった。
 一方では、旅行会社が地球周回旅行客を募集し、宇宙機用の専用港が建設され、宇宙機の試験飛行が報じられるようになった。ハネムーンや熟年旅行コースに、宇宙ホテル宿泊が組み込まれる時代がそこまで来ているのだ。
 「わたくしたち誰もが宇宙に出かける時代が近づいているというのは本当なんですか? なにも準備なしに無重力状態になっても大丈夫なんですか? 宇宙飛行士たちはずいぶん訓練するという話ですが------」
 と改まって質問されると、一瞬、返答にとまどう。
 たしかに、これまで延べ五〇〇人を越える宇宙飛行士が宇宙に出かけているが、からだに危険を感じたという話は聞かない。しかし、まったく問題がないわけではない。そのあたり、拙著『宇宙とからだ―無重力への挑戦―』(南山堂、1998)や宇宙物理学者ニール・F・カミンズの『もしも宇宙を旅したら―地球に無事帰還するための手引書―』(三宅真砂子 訳、ソフトバンククリエイティブ、2008)にまとめられている。
 われわれ一般人が地球周回旅行に出かけることになっても、当初は、せいぜい数時間の無重力体験だ。宇宙ホテルが運用されるようになっても、旅行者の滞在はせいぜい数日間だろう。この短期間の宇宙旅行を“楽しいもの”にするために、まだ対策の確立されていない一つの問題がある。それが「宇宙酔い」だ。
 宇宙の無重力状態にさらされると、三人に二人が車酔いや船酔いのような症状に悩まされてしまう。しかも、 “乗り物に酔いやすい”と“宇宙酔いになりやすい”は無関係、というからあつかいにくい。
 宇宙酔いはまだ研究段階にある。宇宙開発に民間活力導入の方向性が示され、商業宇宙旅行の具体化が着々と進んでいる状勢を考えるとき、再度、宇宙酔い対策研究の要望が高まるのは必至と思われる。
 本書は、「宇宙酔い」の解説書である。
 第一章では、「宇宙酔い」とはどんなもの、その成因として考えられている「感覚混乱説」の考え方、またその背景となっている宇宙実験などについてわかりやすく紹介する。
 第二章は、一九九二年九月に、毛利宇宙飛行士と一緒に飛行した鯉による宇宙酔い実験の話だ。実験の概要は、飛行の二年後に『宇宙へ飛んだ鯉―エンデバーの宇宙実験―』(リバティ書房、1994)として著わしたが、その書房の主幹が若くして亡くなって書房は閉鎖され、早々に絶版となっていた。動物を利用した宇宙酔いの基礎的研究は希有であり、これを貴重な記録として見直し、未収録であった実験解析結果を加えてよみがえらせた。
 スペースシャトルに登載された宇宙実験室の半分を借り切って、三四の宇宙実験を遂行するという国のビッグプロジェクト(FMPT)は、無類のストレスと得難い感動の記録ではあるが、同時に宇宙生物科学研究における我が国の潜在能力を世界に知らしめた意義は大きく、その実践の内容と成果は、今なお色あせることがない。
 そして、第三章では、宇宙酔いの原因と考えられている脳の「感覚混乱」について、ちょっとばかり踏み込んで考えてみた。日進月歩の脳科学の進歩に照らしたとき、「感覚混乱」はどのように理解できるだろうか、私たちが日常生活の中で経験する錯覚現象との関連や、未だ解明に至っていない視覚現象の不思議などを例に、また、今は伝説の大型実験装置となった人体用直線加速度負荷装置を使って得た新知見を加え、宇宙酔いの本質に迫ってみた。
 できるだけ広い読者層のみなさんに興味を持ってもらえるように、平易な文章表現に心がけ、なお内容は薄くならないように努めた。本書が、無重力にも適応するヒトの脳の可塑性と感覚する脳の不思議に興味を喚起し、若者たちの科学する心を鼓舞する糧となって、宇宙酔い対策の確立に少しでも貢献することになれば幸いである。

                    森 滋夫

 
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