|はじめに|

 数学そのものが敬遠され気味の時代,和算史研究の意義が問われそうです.しかし,数学(和算も)は人類が生み出した貴重な文化遺産であり,その普遍性ゆえに異なる文化・文明,時代を超えた文化・文明の基底を形成しています.ピュタゴラスの定理の原型は古代バビロニアの粘土板に刻まれ,3,500年以上の歴史を誇っています.ピュタゴラスの定理は中国の古代数学より「句股法」(「句股弦(直角三角形)の理」)として非常によく知られ,和算でも必修のアイテムです.和算は主として中国や朝鮮を経由して日本へ入り江戸時代に独自の発達をしました.明治政府は学校教育にヨーロッパ数学を導入することを決定しました.その結果,和算は明治になって急速に衰退し消滅してしまいました.
 過去の遺物である和算,現代の数学に直結しない和算を,今さらとお思いでしょう.和算など紙魚と好事家の世界のようにお思いでしょう.本書は和算史を通して大航海時代が日本を中世から脱出させ,近世社会を創出し,さらに日本の近代を準備し明治への架け橋の土台となったことを明らかすることを大きな目標とします.
 特に本書の特徴は和算の数学的側面をテクニカルに論じるのではなく,その背景にある政治経済および社会文化と関連づけて考えることです.また,本書は和算のルーツが全て中国数学であるという通説に異議を申し立てた,平山諦先生の晩年の著作『和算の誕生』の続編とも言えます.それゆえ本書の書名を『和算の成立』としました.本書は時代的にも『和算の誕生』につづく時代を取り扱っています.さらに本書が『和算の誕生』の続編と自認することは「和算の誕生から成立」にあたってキリスト教文化を含むヨーロッパの数学・天文暦学・測量学などの影響を受けたことを明らかにすることです.16 世紀中葉から地理的にも大航海時代の先端に位置した日本への異なる文明の受容と衝突が創り出したものとして和算は大きくクローズアップされます.また,その受容と衝突の要因の根底に当時の大きな気候変動,社会変動,歴史的転換があったことも.
 和算史について無知であった私を導いてくださった平山諦先生に深く感謝申し上げます.私家版『和算の成立:上』だけは平山諦先生にお見せすることができたのも,せめてもの恩返しと思っています.本書を平山諦先生の御霊前に捧げます.

(中略)
 尚,本書の研究の一部は,平成10年度文部省科学研究費補助金(研究課題「東西文化史上における和算――和算史における西洋数学の影響について――」:課題番号10913013)の御援助をいただいています.
2004 年 5月15日
鈴木武雄

 
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