|あとがき|
 もう 30 年近く前になるが,ケンブリッジ大学のサトクリッフ教授と,その息子さんが書いた『科学からの物語(Stories from science)』(1962)という,かなり大部な本が日本語に直され,『エピソード科学史』という訳書名で 4 分冊(化学編,物理編,生物・医学編,農業・技術編)に分けて出版された(市場泰男訳,社会思想社「現代教養文庫」1971).この本には科学の歴史の中で科学者たちがどのような機縁で発見や発明をするに至ったかというエピソードがたくさん紹介されており,平易な筆で描いた科学史の気軽に読める啓蒙書として世間に迎えられて版を重ねた.
 科学史をこのような形で扱った本では,一つ一つの逸話(エピソード)は読んでそれなりに面白く,私たちを科学の世界にすんなりと導き入れてくれる.しかし,逸話と逸話の間の繋がりが今ひとつはっきりしない,という満たされないものが残る.一方,科学史全体を通史的に扱った本は,一般の人には難解で,取っつきにくい.そういうわけで,通史の難解さが薄められた本,そうはいっても科学史の道筋もある程度はわかるような本が欲しいと思っていた.しかし,私の勉強不足のせいだろうが,その後の長い期間にわたってこの類の本に接する機会に恵まれていない.それならいっそのこと,自分が望み,自分に納得できるような本を自分で書いてみようか,という厚かましい思いに駆られるようになった.それは,多くの人に関心が寄せられ,しかも科学史の中で節目となっているような零れ話(逸話)を中心に据え,物理学・化学・生物学などの分野ごとにそれらの逸話をおおむね時代順に配列することによって,科学史の全体像を大まかには理解してもらえそうな,目標だけはきわめて遠大な本である.こういう野心を胸に秘め,いわば「盲,蛇に怖じず」の強がりで書いたのが,この“物語”である.
 科学者が自然に対面して事実や法則を明るみに出そうという欲求にかられるとき,そのための自然認識の方法がけっして単純ではなく,むしろ多様で,ドラマに富んだものであることを,ここに紹介する数々の逸話は示している.発見の動機にしても偶然があり,閃きがあり,論理的思考がある.科学者たちが真実に到達する道は決して平坦なものではなく,むしろ起伏があり,その行く手をしばしば荊棘が遮った.そして科学者のこういう真摯な営みの陰で,あるときはさまざまな,あまりにも人間的な欲望が蠢いたことすらある.拙著は,科学の世界におけるこのような実相を,科学者の一挙手一投足の中に探ってみることも,その狙いの一つに据えている.
 逸話を綴ろうとするときは,内容を強く印象づけようとするあまり,文章表現上,作為をほどこしてしまいがちなので,例えばガルヴァーニによる動物電気の発見やレントゲンによるエックス線の発見のように,伝記作者によってまったく異なる描写がなされている場合もある.本書ではそのような手法は,つとめて避けるようにした.逸話の主人公になっている科学者や彼の周囲に登場する人たちの生没年を入れたり,固有名詞や史実性などにこだわって書き直したりしているうちに,かなり“堅い”内容になってしまったが,それはそれなりに評価していただける面があると思う.
 この“堅さ”に拍車をかけるように,冒頭の第 1 話に「こぼれ話し」という言葉とは縁遠い「近代科学を準備したもの」を置いたが,この章から何かをくみ取っていただけた人には,そのようにした理由を理解していただけると思う.科学のギリシア時代と中世がそれぞれ 1000 年という年月に及んでいるのに,近代科学が誕生してから今日までわずか 4〜500 年しか経過していていないことに目をとめてもらいたい.
 また,第 1 話の最後の一章,すなわち「科学的事実と科学的判断」にご批判の気持ちを籠めてお目落としいただきたい.何となれば,こんにち人間社会の数多くの営みの中で,「科学的事実」や「科学的判断」といった言い回しが,時としてのっぴきならない意味をもつこともあるからである.
 この本には,何かを知りたいという人間の原衝動が,そのための環境が用意されたときに,知的活動を誘発し高揚させて自然界の事象の解明を結果するさまを理解してもらいたい,という期待が籠められている.この意味で,高等学校で理科の授業の副読本として,さらには大学教養の自然科学の講義に利用していただくこともできよう.
 なお,本書の内容の一部は,前著『ガリレオの求職活動 ニュ−トンの家計簿』(中公新書)の中の「ガリレオの宗教裁判」「三次方程式の先取権争い」「パレの外科手術」の叙述に筆を加えて再録したことをお断りする.
(以下略)
   2002 年 4 月
佐 藤 満 彦
 
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