|はじめに|

 南インド西海岸のケーララ地方には,14世紀から16世紀にかけて,マーダヴァ(西紀1380/1420頃活躍)を初めとして師弟関係で結ばれた一連の数学・天文学者たちが輩出した。パラメーシュヴァラ,ダーモーダラ,ニーラカンタ,ジュイェーシュタデーヴァ,シャンカラ・ヴァーリヤル,ナーラーヤナV,アチュユタ・ピシャーラティ等である。マーダヴァ学派と呼ばれることもある彼らは,ヨーロッパのグレゴリー,ライプニッツ,ニュートン等に先立つこと200〜300年,独自な方法で,円周率,およびサイン,コサイン,アークタンジェント,正矢などの三角関数の級数展開を得ていた。このことは,イギリス東洋学の一部としてインド数学史研究が始まって間もなくの1835年にすでにフイッシュが一部紹介していたにもかかわらず,十分に人々の耳目をひくところとはならなかった。  

 フイッシュの先駆的ではあるが簡単な指摘の後,長い間,原点に即した批判的研究による立証は行われなかった。しかし,フイッシュから一世紀,今世紀も四半分を過ぎたころから,インド民族主義の高揚に伴い,インドの研究者たちによるインド数学史の研究が盛んになるにつれて,マーダヴァ学派の数学もインド国内外で紹介されるようになり,少なくとも数学史研究者の間では,事態はある程度改善されてきた(付録2文献参照)。また一般の読者向けにも,例えばユシケーヴィッチの『中世数学史』やジョーゼフの『孔雀の冠毛』のように,新たな研究成果を取り入れて,比較的バランスのとれた中世インド数学史像を描き出す書も見られるようになってきた。だがそのような書はまだ例外である。インド数学史研究に関してはいまだに,12世紀中葉の数学・天文学者バースカラUのあと19世紀末から20世紀初頭にかけてのラーマーヌジャンまでは見るべき独創性のない注釈書の時代が続いた,といった誤った常識が通用しているかのようであり,マーダヴァ学派の数学上の成果を正当に評価している一般数学史の書は少ない。

 数学史をめぐるそのような知的状況に,原典の批判的研究に基づく本書がささやかな一石を投ずることができれば嬉しい。思えば,ブラウン大学のピングリー教授のもとでそれぞれに学んだ我々三人が,帰国後,インド数学・天文学に関する定期的な研究会を開くようになってから十年近くの歳月が流れた。この間の我々の共同研究のテーマは一貫して,南インド,ケーララ地方で特異な発達をみせたマーダヴァとその後継者たちの数学および数理天文学であった。その成果の一部はこれまでにも何度か専門誌や学会などで発表する機会があったが,『アールバティーヤ』に対するニーラカンタの注釈書の研究を初めとして,まだ日の目をみない研究成果も少なくない。

 本書の中核となったのはそのような未発表の共同研究であるが,ここではテーマを数列・円周率・三角法に絞ることにした。

 本書は第1・2章と第3・4・5章の2部に分けることができる。  第1・2章はサンスクリット原典の翻訳と訳注から成る。第1章で和訳するのは,級数によるマーダヴァの円周率計算方法を詳しく伝えるシャンカラの著作である(そのサンスクリット・テクストを付録4とする)。第2章では,シャンカラの師,ニーラカンタの著作のなかで3つのトピック,数列,円周率,三角法,を扱った部分を和訳する。それらの著作はいずれも注釈書(前者はバースカラUの『リーラヴァーティー』に対する,後者はアールヤバタTの『アールヤバティーヤ』に対する)であるが,数学・天文学の古典である『アールヤバティーヤ』(AD499)や『リーラーヴァティー』(AD1150)を基礎としてマーダヴァ学派が発展させた彼ら独自の数学を盛り込んでおり,彼らの数学を今に伝える歴史的にきわめて重要な書となっている。また特にニーラカンタの『アールヤバティーヤ注解』は,単なる注釈書の域を越えて,ニーラカンタ自身の独創性も随所にちりばめられており,注釈という形を借りたオリジナル数学書と呼んでいいかもしれない。そのうえ同書はアールヤバタの規則正しい意味を千年ぶりに復活させるなど,そのすぐれた洞察力によって現代の数学史研究者にも重要な示唆を与える可能性を秘めている。

 第3・4・5章は,本書のテーマである3つのトピックのインドにおける歴史の解説である。第3章(数列)は,楠葉・林の共著論文に楠葉が手を加え,新たに書き下ろした一節(§3.4)を加えたもの,第4章(円周率)は,林が1994年以降にいくつかの研究集会で話した事柄を中心として書き下ろしたもの,第5章(三角法)は,矢野が既発表論文に立脚しつつ新たな研究成果も加えて書き下ろしたものである。いずれのトピックに関しても,それぞれに概論的通史とそれを裏付ける詳しい原典資料の翻訳とを典拠とともに示した。これらが,インドにおける数列,円周率,三角法の歴史を理解するための一助となると同時に,更なる研究の出発点となれば嬉しい。なお上述の理由から,文献の引用形式などの不統一と内容上の重複がいくらか残っていることをお許し願いたい。

 巻末には付録として,1.年表,2.文献,3.略号,4.サンスクリット・テクスト,5.語彙集,6.索引,7.英文目次,を付した。これらのうち1−3,5.2,7は林が,4は楠葉が,また5.1と6は矢野が現行を作り,三人で検討を加えた。

 なお本書の原稿は,文書プログラムLATEXを用いて書かれた。これは,スタンフォード大学のdonald E.Knuth教授により開発された画期的コンピューター組版システムTEXを土台としてディジタル・エクイップメント社のleslie lamport氏が作成したプログラムである。両氏に感謝すると同時に,knuth教授が昨年度の京都賞を受賞されたことを心から祝福したい。

 
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