|跋文|

 三上義夫先生は明治8年2月16日広島県甲立村(現在の甲田町甲立)に生れ、昭和25年12月31日甲立で除夜の鐘に送られてこの世を去った。  先生は早くから東京府豊多摩郡落合町(第二目白文化村)に居を構えていた。昭和20年の戦災にあい、一時千葉県大原町に避難したが、その年の5月には郷里甲立に帰られた。実家に病人がいたため友人の高橋佐太郎の家に落ち着いたが、同氏の世話で理窓院に移られることになった。そこでの生活は火の気のないわびしいものだったと聞く。しかし元気で安浦町の広島女子高等師範学校に出かけ講演もした。また、著作活動も続けられたことが恒星社厚生閣社長土居客郎に寄せられた書簡によって知られる。

 杖をついて小学校にいかれ職員と話された日も多かった。帰途には必ず「子供たちをよろしくお願いします」と丁寧に語られたそうである。  昭和25年春2月先生は中風で病床に伏せられてからは、ほとんど動くこともできない様子であった。しかしこれより前23年末から翌年春にかけて身体の異状を感じられたようである。確か23年夏に先生からお手紙を頂いた。中に「身体がどうなるか心配だ」との一句のあったことはよく覚えている。その手紙には前年に出版された著書の訂正表が添えてあった。その訂正は本書に記入した。私も23年9月には結核のため入院して、26年に退院してから詳しい事情は山本一清から知らされた。

 先生は、16歳で東京に出て、東京数学院、国民英学校に学んだ。27歳で東京物理学校雑誌に処女論文「多面体の角、稜及面に関するオイレル定理の別証明及拡張」を発表した。和算に関する最初の論文は明治38年30歳のとき、ドイツの雑誌に発表した論文 A Chinese theorem on geometry であった。中国の定理とあるが、実は本文273頁に示した丸山良寛の問題であった。この論文は反響を呼び、先生の名を一挙に高らしめた。これ以来、没するまでに発表した著作、論文は300編か400編に上るが、まだ集計されない。 このうち英独文の論文は約35編、これに英文の単行本3冊を加えると総数1000頁に達する。林鶴一のそれはその半分くらいである。これほど多く日本固有の数学−和算を海外に伝えた人はほかにいない。遠藤利貞の後を襲った林鶴一、三上義夫の両先生は互に論戦を繰り返しはしたが、自ら守る領域はあった。

 文学博士山田孝雄が没する2年前に書かれた「三上義夫君を追悼す」が増修日本数学史672頁に掲げてある。山田と三上の間は水魚の交わりであった。山田は三上を称して「畏敬すべき良友を得た喜びに堪えなかった」とし、「君の如く終始学問上の交わりであり得た人は、故人でいう時は、大槻文彦博士と三上君とを以って著しい人とする」と述べた。つづいて三上の学問上の功績を称えて、最後に次のように結んでいる。

 「国際科学史学士院会員としての三上君は、外国に対して、日本数学また中国数学等の研究を発表しつつ、我が国の文化の闡明に力を尽くしていられたのに対して、日本国家が之に何の報いるところがあったか。(中略)日本が文化勲章というものを制定したときに、まずそれを授けられるべきは三上君であったと私は確く信じていて、今日なおこの言を中止せぬ」。

 先生の数多い論文のなかから本書は6篇を撰んだ。はじめの3篇は昭和22年7月に出版された「文化史上より見たる日本の数学」(創元社)の全部である。この撰定は先生自身でなしたものである。これに準じて撰んだものが「第4章 我が国文化史上より見たる珠算」である。

 この4篇は和算が如何にして我が民族の間に芽生えたかを、鋭い観察力を以て綿密に洞察して成ったものである。その中に一つの芸術的なるものを見出した。芸術的なるが故に発展性を秘めている、と先生は言う。その分析過程をつぶさに味わって頂き、ややもすると、哲学的思索に欠けると言う科学者に読んで頂きたいと思っている。  江戸時代の末には和算は地方の津々浦々まで浸透した。算額は山奥の小さな神社仏閣にまで掲げられるようになった。明治に入ってからは、地租改正のための測量事業も滞りなく遂行された。これらは地方に文化が行きわたった証拠である。先生はこの実態を探るべく全国を回り、古老に尋ねて取材したものが「第5章 遊歴算家の事蹟」と「第6章 算額雑攷」である。

 遊歴算家の教えを受けた人々を尋ねてその実態を記録した人は、先生のほかにはない。地方の文化を闡明するために先生は現存する算額を調査した。これが「算額雑攷」である。戦後、荻野公剛が真っ先に全国的の算額調査に乗り出した。昭和57年6月、桑原秀夫の「算額考」の出版で一応終ったが、その間調査に関係した人は数百人に上った。さらに調査をし完璧を期したものが付録の「現存算額所在表」である。これが三上先生の志を継ぐ再出発となることを望んでいる。

 
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