昭和35年8月決定版と銘打って本書を出版した。しかし間もなく日本数学史学会の結成を見、地方においては郷土史研究に伴い和算家の事蹟も掘り起こされ、算額は文化財として人々の注意を喚起した。そして安島直円全集、関孝和全集などが出版される時勢となった。これがため埋もれていたことが続々と判明した。
本書第二版の出版に当りては本文の誤りを訂正し、重要な関係事項を補記することに努めた。本書に出現する和算家の生没年を修し刊本和算書の完全を記したのはその一端である。この二つは殆ど下平和夫氏の手になったものである。割算書と関孝和の関連事項は和算史の根幹であるから詳述した。暦術の研究は関孝和以来、代々の和算家の研究と離すべからざるものであったが、本書には暦術の説明に欠くるところがあるから内山守常氏に一文を請うて掲げた。
本書巻末の故遠藤利貞翁略伝に見られるように本書の記述は地方的に精疎があり、また三上義夫の意にも満たない点もあるが、今回の第二版はあまりにも紙幅尨大になるため、その徹迹を履まざるを得なかった。
遠藤利貞は明治43年から大正3年に至る約4年間は京阪以西の取材旅行を試み、最後の旅行から帰京するや否や病床の人となった。これらの調査記録は岡本則録が整理し、机前玉屑4冊、春峯雑記などとなっている。一方遠藤が大正4年4月に没するや、三上義夫は明治29年に出版された大日本数学史を増補訂正して増修日本数学史の編集出版にとりかかった。非常な困難を経て、早くも大正6年には印刷作業に入ることができた。また本書の編集の仕事を三上が遂行したことは、本書18頁の「文化史上より見たる日本の数学」に載せた菊池大麓帝国学士院長の本書の序文稿や、本書677頁に載せた三上義夫の書簡によって明らかである。
私の手による最後の出版となるだろうと思われる本書にはすでに補遺が200頁以上も入ることになった。それ故、平山諦補遺とする以上は、三上義夫編とすべきである。これが本書のあるべき姿であろう。
前回の出版で多数の方々のお世話になったことは索引に記した通りであるが、今回もまた次の方々のお世話になった。資料を提供された方、誤りを指摘された方や私から調査を依頼した方もあるが、該当する頁の頭注に記入し得たものはわずかである。大部分は補遺訂正の中に織り込んだ。その旨を述べ深く感謝する次第である。神田茂は和算天文暦に関する多くの遺稿を残されたが、まだ検討は進んでいない。(尊称は省かせて頂く)
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