|はじめに|

「序」より抜粋
 『哲学音楽論』を進めていくにあたり、いくつかのキーワードがある。
 まず、今述べた〈音楽教育〉である。われわれが生まれ落ちたそのとき、もうすでに多くの「音楽」が、さまざまな接頭語(たとえば〈ポピュラー〉、〈クラシック〉、〈民族〉、〈伝統〉、〈ロック〉、〈環境〉など)を伴って存在する。ゆえに多くの人は、なにが音楽なのか、音楽とはなんなのか、思考する必要がない。クラシック音楽家は〈西洋音楽の普遍性〉を当然のこととして受けとめる(あまりにも当然なので〈普遍性〉ということばを知る必要もない)。
 逆に学校現場では、音楽科の存在意義が常に問題となる。音楽教師たちは教科に対するアカウンタビリィティ(説明責任)を、他教科以上に要求される。子どもたちは、学校で 音楽の授業を受けなくても、好きな音楽を視聴し、カラオケで歌うことができるのだから。音楽を思考せず聴くことは、今、まさに生起している実際なので、その理由を歴史的、社 会的、文化的背景に求めても、おそらくもうひとつの紙の世界を構築して終わることになる。
 それならば、音楽がことばにより解釈される以前の原初、つまり、音楽とことばが生まれた軌跡を探れば良いだけのことだ。ここで第2のキーワード〈サウンドスケープ〉が必要となる。昔の人々がどのようにサウンドスケープを見立て、さまざまな〈音楽文化〉を形成したのか、を探るのではなく、自らの耳と身体で音を聴き、見立てていく。そのような体験の連なりの、どこか一つのポイントに、ふっと打たれる瞬間があるかもしれない。
 (略)
 もちろん〈ことば〉も重要なキーワードとなる。ことばはいつも後づけの解釈や、意味による価値づけをしているわけではないからだ。ことばの存在が無ければ〈哲学音楽〉は 成立しない。

 ヒトは、風からさまざまな音楽を習った。ギリシア神話の牧神パンは羊飼いに、葦笛に蜜蝋を塗る手段を教えた(Schafer, 2006)。口笛もまた、ヒトが風に木霊を返すことでで きた楽器だ。海で吹きすさぶ西風は波を生み、やがて波は凪ぐ。ヒトが真似してみたくなっても仕方ない。
 今日も、どこかでビル風が吹いている。
 風の音を聴く。〈聴く〉という行為は、視覚化こそされないが、〈食べる〉や〈歌う〉や〈笑う〉などと同じか、それ以上に積極的な動詞である。ただ、誰かがビル風に口笛で木 霊を返したとしても、別段、そこに意味や価値を見出す必要もないのだろう。
 身体がなにかを感じ、そのインパクトを透明に写し取る。音楽、ことば、身体をめぐる幸福な営みを、僅かばかりでも提案できれば、と考える。

 
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