|はじめに|

 本書の大半は,私の教育体験からもたらされている.自分の研究していることを学生に説明しようとすれば,それを言葉で表す簡潔な仕方,抽象的な観念に具体的形式を与える実例を見つけなければならず,学生が自分たちの研究のなかで学んだことを新しい様式で思考し操作するための課題を見つけなければならない.個人の話に耳を傾け,学生が研究のなかで見出す一見したところ特有と思われる問題に耳を傾けるにつれ,(個別の問題解決を通して知識を蓄積してきた,各コンピューター専門家のように)次第にそうしたもののなかに類似性を見出すようになる.特有なものが,ある一般的問題の一変異であることを学ぶようになる.しかし個々の新しい問題は,それぞれ他のすべての問題とまさに異なっている点で,それらが包摂される一般的部類は何かという厄介な問題に対する理解を深める手掛りを与えてくれる.
 しばらくして,日々の授業の必要,あるいは学生の研究上の問題のために,その時々に思いついた技法を私は記録し始めた.そして学術論文の書き方に関する書籍(Becker, 1986b)を書き終えたので,集めていた「技法」のファイルにある資料を用いて,「思考」様式についての書籍をその続編として上梓しようと決心したのだ.これらの着想のうちのいくつかは,以前の出版物,あるいはあれこれの折に書かれた論文が初出であるが,本書ではこうした以前の著作を自由に借用している(この序文の末尾に,その許諾を得た出版社のリストが掲載されている).
 私の作品の大半は,多かれ少なかれ自伝的性格をもっているが,本書は特にその性格が強い.私自身の体験が,広範囲にわたって繰り返し述べられている.おそらくなかでも特徴的なのは,私が学生時代に教えられた方法を想起している点,さらに社会学的作品がどのようなものたりえるのか,社会学者としての人生がどのようなものたりえるのか,それらを学んだ社会学者を想起している点だろう.ある意味において,本書は私を教えてくれた人たち─そのうちの多くは私が学生だったときの先生方であるが,卒業後の先生たちもいる(卒業とともに教育が終わったわけではない)─への賛辞である.私はしばしば,自分が言わなければならないことを自分が学んだ人たちの言葉と結びつけ,彼らの思考を自分自身の踏み台として使用することによって,敬意を示してきた.私は年月を経るなかで,大方の人々が学ぶことを学んできたが,それはよくよく考えれば私の師たちがすでにほぼ語ってくれていたものなのだ.
 私はまた,長年にわたって私が書いたものを,批判を含めて好意的な評価をもって読んでくれた多くの人々からも学んできた.いく人かは本書の初期の草稿を読み,長文のコメント寄せてくれた.それがより多くの作業を強いたとしても,私はそのコメントに感謝する(もっと耳を傾けた方がよかったかもしれないが!).こうした点で,キャサリン・アデルソン,エリオット・フリードソン,ハーヴェイ・モロッチ,チャールズ・レイガンに対して,その思慮深い批判に感謝する.
 ドグ・ミッチェルは,著作者が一緒に仕事をしたいと望む編集者だ.彼は本書の完成を辛抱強く待ち,興味深い有益なアイディアを提供し,私のともすれば萎えがちの関心と自信を鼓舞し,総じてこのプロジェクトを活性化させ続けてくれた.
 ダイアナ・ハガマンとは,家庭だけでなく知的生活を分かち合い,あらゆる種類の研究上・概念上の問題を相互に探査しあい,その成果は本書全体に浸透しており,分離することも指摘することもできない.さらにいえば,彼女はそこで起きているすべてのこと─ぶつぶつつぶやく独り言,時折の一言,書かれたものの音読まで─に耳を傾けた.そして彼女の反応と着想は,本書の最終草稿の作成に生かされている.
 私は,他の出版物に初出の資料を本書に引用することを許可してくれた,多くの個人と出版社に感謝したい.
(以下省略)

 
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