|はじめに|

 (前略)
 本書は,東アフリカ・ケニア共和国北西部に暮らす牧畜民トゥルカナの人々の間に出現した新しい病気「糞肛門」についての民族誌的報告(エスノエッセイ)である。「糞肛門」は,便秘を主訴として,さまざまな症状や病気をひきおこすとされる病気で,治療法は,マッサージだけである。本書では,マッサージ場面の分析を中心に,「糞肛門」の出現の経緯を明らかにしたい。それは1980年代の干ばつ以降,トゥルカナの人々をみまった社会変動への対処として編み出されてきたのである。
 (中略)
 本書の目的は,新しい病気「糞肛門」の出現を,大干ばつ以降の社会変動への身体的対応として描くことにある。
 分析の中心は,糞肛門の唯一の治療であるマッサージ場面にある。マッサージ場面では,マッサージ師は病者の身体を触ることで,そして病者の反応をフィードバックさせながら,糞肛門の状態を探り,患部を正しい状態にもどそうとする。いわば,共通の身体構造を前に,マッサージ師と病者は私たちに糞肛門の身体を拵えて見せてくれていることになる。私たちは,マッサージ場面の分析から,糞肛門の身体の仕組みを知ることができるだけではなく,それを従来の病気対処と比較することで,糞肛門の新しさを再確認することができよう。同時に,マッサージ場面で行われる病気の説明はたんなる“言葉だけの”解釈ではないことを強調したい。人々が共通してもつ身体構造に直接触れることで,そこに病気を“実際に”実体として出現させる。患者側からみると,マッサージによって,操作される実体として現れた「糞肛門」が巣食っているのは自分自身の身体であるから,マッサージ師の説明は実感をもって受け入れることができる。マッサージ場面は即,病気のエンボディメント(体現化)の現場なのである。
 さらにいえば,マッサージ場面は,かくあるような糞肛門の身体が,マッサージ師の言葉によれば「目と手によって」患者に伝えられる,伝達の場でもある。家長は苦笑いをして「(糞肛門は)みんなもってるさ」と言った。糞肛門の蔓延は,人々が互いに同じ病気の身体をもつことを知ったということを意味する。
 病気対処の文化的研究では,病因論や病気の意味づけなど,説明モデルに代表される社会的・文化的表象の研究がさかんである。新しい病気は“伝統的な”コスモロジーやマスメディアの言説によって解釈され,既存の意味の構造に回収される。研究のなかで身体は,本来症状や治療が展開される舞台であるのにかかわらず,ただ意味づけられるだけの脇役,白紙の媒体として扱われてきた。それに対して,本書で,私は,「糞肛門」の出現がマッサージによって拵えられた新しい身体にもとづくことを示す。それはシステムをつくることで病気とその身体を飼いならしたと考える私たちに等身大という言葉の意味と手当の重要性を教えてくれるだろう。
 構成は,糞肛門以前からある病気対処と,糞肛門のマッサージ治療との比較である。具体的には次のようである。理論的背景の整理のあと,トゥルカナの病気対処の特色を,身体をどのように扱っているのかに着目して分析する。そのあと,読者には3つのマッサージ場面に立ち会っていただく。マッサージ師はどこをどのように揉むのか,何を手がかりに揉むのかを,マッサージの動線分析とインタビューによって検討する。とくに,マッサージ師と病者,他の見学者がどのように糞肛門の身体でおこっていることを説明するか,に即して,糞肛門の身体のありようを学ぶ。本書の構成は,まず,社会変動にみまわれたフィールドの人々の暮らしを第1章で紹介したあと,第2章で糞肛門の現象的紹介を行った。第3章では,本書の分析枠組みをまとめた。第4章は,干ばつ以前からあった在来治療の特色,第5章は方法について,第6〜8章は,マッサージ場面の分析,第9章は,まとめと考察にあてた。
 (後略)

 
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