|あとがき|
序:本当に若者の問題なのか?

 1.遠い将来を見据えること
 若者とは,社会の新人,ルーキーである.いわば「ひよっこ」だ.  「若者」もしくは「青年」とは,社会の成員としての権利と義務を遂行できる能力を身につけるまでの助走期間にある人々である.そして,社会の側は,そのひよっこたちに希望を託してみたり,彼らのつくる将来社会を心配したりする.

 近代社会が続く限り,若者はそのどの社会的段階にも必ずいる.そして,若者のカテゴリーに分類される人々の意識や行動は,社会変容の最先端を指し示すと仮定し得る.したがって,近代化という変容のモードを扱う社会学にとって,若者現象に注目し,調査研究を行なうことは必然の営みだともいえる.
 日本の若者は,これまでどのように説明されてきたのだろうか.

 1960年代にD・リースマンは,日本人の社会的性格が状況的であり,他人志向であると述べている(Riesman 1961=1964).大学の演習などで彼の『孤独な群衆』を読んだ学生たちは口々に「今の日本社会にあてはまる」と感想を述べる.40年以上を経過してもなお,この社会的性格は変わっていないようにみえる.しかし,そう言い切れるだろうか.状況的で他人志向的にみえるなかにも,これまでに光があたってこなかった何かしらの傾向があるのではないだろうか.前段階の社会から次の社会を創造する先駆者たちが生まれてくる過程は,現社会に対する非適応的な社会的性格を呈するもののなかにある.つまり,当該社会の若者の非適応的な社会的性格のなかにこそ,創造性の芽があるということだ.ある意味で,将来社会を見据えるということは,非適応的なものを丁寧に観察するという手段によっても可能となる.

 1990年代〜2000年代にかけて,日本社会は「若者論の失われた10年」を経験した(浅野 2006).浅野の指摘するとおり,実証的な裏づけもないままに,若者を否定的な色彩に塗り込めるクリシェによって若者像を納得してきた/させられてきた10年であった.このことは,若者に関わる社会問題に限定しても同じことがいえる.日本社会の側が将来社会を見据える努力を怠ったのか,必要としなかったのか,理由は何であれ,将来社会についての青写真を社会分析のレベルで創造することができなかったことはゆゆしきことだといっても差し支えないだろう.

 この点に関する反省はまだある.現代社会論という大上段に構えず,若者の社会学的研究の内部に限っても反省すべき点があるのだ.1990年代以降,若者の新しい種類の問題に対する実証的な研究成果は非常に少ないと編者は考えている.確かに,戦後数十年間をかけて,若者の犯罪は減少した.また,第3世界の人々が従事しているからには違いないが,少なくとも日本のなかでは,かつてあったような炭鉱・鉱山労働のような危険きわまりなく低賃金の労働に従事するような若者や寄せ場で日雇いの仕事を見つけてその日暮らしを細々と続けるような若者の姿は減少した.生活のために学校に行くことができず,仕事をしなければならない若者は減りつつある.平均的に捉えれば,「世界一裕福な若者」と称されることからも,経済的な問題は雲散霧消しているようにも思える.しかし,裕福な社会においても,その社会なりの若者に関わる問題があり,それに悩む人々がいる.例えば,2003年には少なくとも71万世帯が「ひきこもり」を抱え(石川 2007),問題として対峙することを余儀なくされている.また,労働問題は長期化し,10年前にフリーターだった若者は,もう若者ではない.現在は中年にさしかかった低所得者層として困難を抱えている.社会学はあるべき社会の姿やとるべき方法・施策を示すことには禁欲的だが,社会問題に対してオルタナティブな処方箋をいくつか提示することが可能である.しかし,問題に苦しむ人々に対して,若者の社会学のなかで処方箋を示した研究がいくつあっただろうか.処方箋を示す力量がなくとも,社会学的方法を用いて,その問題の状況を客観的に理解する助けになるような研究を行なうことが務めであるかもしれない.そしてそれは大変少なかったといえる.

 ホームレスを殺す若者,ホームレスとなる若者,過労死する若者など,数として少ないとはいえ,いないわけではない.そして,こういった問題を理解する手がかりとなる若者文化も特殊な面を垣間見せることがある.本書は,「若者の問題」と目されている現象に対して「若者の問題なのか,そうでないのか」そして「若者の問題であるとするならば,社会学的に問題化する方向性はどこにあるのか」という問いを中心としている.また,この問いに対して間断なく追究していく手がかりを実証的なデータから得ようと考えている.したがって,「若者の問題」として目されているがそうではない,というトピックもある.加えて,若者自体を問題化したり,若者文化を批判したりすることに主眼はない.最初にも述べたように,ルーキー,つまり社会に後から参加してきた者に上手にバトンを渡すようなそんな制度やそのような社会のあり方を不断に模索する試みとして本書はある.それは,生きている人間がいるかぎり,最後まで続けられるべき現代的な倫理としてあるのではないかと思うからである.(以下略)

 
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