|はじめに|
 中国に関するおびただしい量の書籍が毎日のように出版されている中,中国の市民社会を話題にした書物は,残念ながらまだ一冊も見あたらない.未熟ながらも,編者として中国の市民社会の可能性を探るための手がかりとなる本を,ここで読者の皆ように捧げたい.
 この本の構想は2年前に遡る.小泉政権下の当時は,日中国交回復後,両国の関係が最も冷え込む時期でもあった.政治的,外交的な関係性の悪化に影響され,マス・メディアの過剰な報道に浸食され,一般庶民の間で相互嫌悪の感情がかつてないほど高ぶった.2005年,日本の国連安保常任理事国入りに反対する署名運動に端を発した反日でもが中国で起こり,それを日本のメディアが異常なほどの過熱ぶりで報道し,日本人の反中感情を増幅させた.日本リサーチセンターによる「日中関係に関する国際比較世論調査」によれば,2005年の時点で「日本に親しみを感じない」中国人は71.1%,「中国に親しみを感じない」日本人も59.6%に達しており,2002年度の共同通信社の調査結果に比べれば,中国ではほぼ5%,日本ではほぼ14%の上昇となった.安倍政権下では,首脳の相互訪問により両国の関係が多少回復したようには見えたものの,中国製品の安全性が疑われる事件が多発するなか,日常生活の中で見られる中国不信や中国嫌いの傾向が依然として強く,前記の日本リサーチセンターによる2007年の日中関係に関する調査でも,数%の改善が見られたものの,大きな変化には至っていないことが示されている.
 両国の関係改善は言うまでもなく双方にとって利益となる.しかし,利益のための関係改善,そして政治家や経済動向に左右される関係改善は,果たして私たちが求めるべき方向性なのであろうか.問題は関係の悪化もしくは改善そのものにあるのではない.一般の日本人は隣国の人々について,あまりにも無知であり,隣国の人々とどのような関係を築いていきたいのか,真剣に考えたことはあまりにも少なく,そして考えたとしても,選択できる余地があまりにも狭い,問題の所在はここにあると私は思う.国益優先の関係改善は,両国の関係構築に実質的な変化をもたらすことは考えにくい.今求められているのは,何よりも隣国の人々を生身の人間として知ること,生身の人間として付き合っていくことではないだろうか.
 生身の人間としてのつきあい方の1つに,消費文化の交流と普及によるつきあいが挙げられる.電化製品などの生活用品から,漫画やアニメ,テレビドラマや音楽,ファッションなどの文化製品に至るまで,日本の消費文化は中国大陸に大量になだれ込んでいる.むろんそれ以上に,中国からの輸入品なしでは,日本人の日常生活はもはや成り立たない.しかし,消費から生まれるものは,さらなる消費のためのつきあいでしかない.社会にとって有益な,生産的なつきあいは生まれにくい.
 本書が市民社会に注目したのはそのためである.消費文化ではなく,社会の問題にも目を向け,より豊かな価値観と生活様式を実践する市民たちの相互理解と交流の分野に,私は「生身の人間としてのつきあい」の,もう1つのあり方を見つけていきたい.すなわち,「市民文化」の交流と共有および相互理解である.本書はとりわけ中国の草の根NGOに注目し,中国から見いだされる市民社会のロジックとそれを可能にする諸要素を明らかにしていきたい.それは中国における市民社会の可能性を検討するための考察であると同時に,特定の1つの方向性に議論のすべてを導いていくのではなく,ダイナミックな社会変動をありのままの姿で描き出すための試みでもある.
 本書は3部構成となっている.
 第1部は,現状の紹介と概念理解,歴史的背景を探ったうえで,本書の理論的枠組みを示す.
 第2部は,草の根NGOの存続と市民社会のロジックの実現を内部から支える諸要素について論じる.具体的には人的資源として知識分子と社会中間層の問題を第4章で取り上げ,資金源の問題を第5章で取り上げ,社会的資源としてNGOのメディア戦略を第6章で論じる.第7章は社会関係資本の視点から人的ネットワークの可能性を考察し,第8章は,活動空間の可能性の視点から「社区」に注目する.
 第3部は,草の根NGOとその外部環境との関係に目を向け,海外のNGOとの関係,政府との関係,企業との関係をそれぞれ第9章,第10章,第11章で取り上げる.
                 編者 (Li Yanyan)
 
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