|はしがき|

現代社会は「高度情報化社会」といわれるが、その姿はますます混迷を深めている。情報化の波はかえって、ある種のアノミーを現出させているかに見える。教育の普及と高度化や情報のボーダレス化とは裏返しに、かつての大衆化現象をはるかに超える知識および文化の劣化、またテロと戦争、殺傷、犯罪や虐待の激化といった一種の「野蛮化」とも言うべき動きを感じる者は決して少なくないだろう。新たな世紀を迎えてもなお、そうした問題は解決されるどころかなお一層ひどくなり、深刻さを増しているのが現状である。
 こうした世界のあり方に対して、社会学は無力であろうか。我々は社会学者として、社会学理論の果たすべき機能を追究するという立場を堅持したい。高度に情報化された世界に対して適切な判断を下すうえで、シンボルとコミュニケーションに関する本編のような理論的探究も決して無意味ではなかろうと思量する。というのも、今日ほど人間的世界に対して綜合的な視点が要請される時代はなかったと思われるからである。我々は、意味的であるとともに因果的でもある人間社会の複合的なあり方について、綜合的なスタンスを保とうと思う。シンボルとコミュニケーションとは、今やそうした人間の綜合的探究にとって時代的に必須の論点となっている。社会学が果たして無力なのかどうかは、いつに社会学者自身の努力にかかっている。
 本編は、前作『システムとメディアの社会学』に続いて、人間行為と社会の深層に迫る知的試みであると同時に、古典的理論家とともに最近の社会学理論に内在する優れた知見を総括しようとするものである。エミール・デュルケームはシンボルとシンボリズムの社会学的研究に計り知れないほどの大きな影響を与えてきた。その古典的な知見を継承しつつ、タルコット・パーソンズはマックス・ウェーバーとジークムント・フロイトの思想を参照しながらオリジナルな社会的行為の理論を構築した。パーソンズの壮大な試みは賛否様々な議論を巻き起こし、今もなおそれは止んでいない。ユルゲン・ハーバーマスとニクラス・ルーマンは、パーソンズを高く評価しながらも、彼とは異なったさらに高度な理論を構築するために、かえって最も厳しいパーソンズ批判者となった。パーソンズの理論と思想は社会学の枠を超え、経済と倫理の関連をも示唆している。アマルティア・センはパーソンズの志向した近代社会の「人間化」を目指す理論家の一人である。そうしたパーソンズとセンの人間行為に対する見識を準備した古典的な思想家にヴィルフレッド・パレートがいる。
 本編の諸論考に共通する視点は人間の意味的世界と実際行動から社会の現実を考察することであり、とりわけ人間の相互作用の要であるシンボルとコミュニケーションという側面に焦点をあてることである。現在、社会システムのメディア分析であれ生活世界の意味解明であれ、シンボルおよびコミュニケーションの観念は重大な意義をもっている。それらは、社会という人間的現実に迫るために決定的な論点を浮かび上がらせるのである。
 総論的な視野をもつ松本和良の第一章を別にすれば、ここに集められた論考は各論的に大きく二つのグループからなっている。一つは人間の意味的コミュニケーションを議論の焦点にしつつ、その社会的現実を広くかつ精密に分析しようとする。田村穣生と小林孝雄の論考がそれである。二つめは、人間の社会的行為の深層に関わるシンボルとシンボリズムの問題に焦点がある。それは科学的認識の作用から経済的合理性と法、イデオロギー、そして宗教に至るまで広範な射程をもっている。江川直子、清水強志、武田朋久、そして大黒正伸の論考がそれに当たる。

 途中省略

 各論考は、シンボルとコミュニケーションをめぐる様々な局面に光をあて、人間社会の綜合的・一般的な議論の可能性を追求したものである。もちろん、これらはなおも推敲を重ねる余地があろう。我々は現代社会を読み解くべき理論社会学を求める活動を継続するだろう。本書が社会学理論の発展と議論の活性化にいささかでも寄与できるならば執筆者一同にとって望外の喜びである。読者諸賢のご叱正を賜りたく願う次第である。

 
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