|はじめに|
 いま時代は大いなる「転換期」を迎えている.そして,新たな社会建設の目標と制度的手段の確立が緊急の課題として意識されている.新たな社会の建設に向けて,科学にも期待が寄せられている.社会学も期待を寄せられている科学のひとつである.すべての研究者が「学」としての社会学にどのような貢献が可能かという問の前にいる.ここしばらくの間,私は,「地域の再生」が「新たな社会の建設を可能にする」というテーゼを設定し仕事を進めてきた.もとよりこうしたテーゼは社会学に,あるいは「学」に固有のものではない.時の内閣が掲げる政策目標,「田園都市構想」(大平内閣)や「ふるさと創生」(竹下内閣)にもそうしたテーゼを読み取ることができる.
 新たな社会の建設と地域の再生についてふれよう.新たな社会の形成には新たな社会を形成するにふさわしい目標が設定されなければならない.そして同時に目標を実現する制度的手段が用意されなければならない.本書は,新たな社会形成の目標を,生命と生命感覚が重視される社会「生命化社会」の構築に置き,「生命化社会」の構築に迫る手段を「地域の再生」に求めている.それは,都市再生,地域再生の試みであり,国家改造,中央‐地方関係再編の試みであり,生活における主体性の構築,新しいライフスタイル構築の試みである.
 そうした試みを単なる構想の域にとどめないためにも,構想を現実化する企てと企てに迫る方法が必要であろう.もとよりそうした試みが複数であることは明らかである.本書では,その試みを,コミュニティの再生とダイナミックなリージョンの創成に求めている.コミュニティの再生とリージョンの創成を通じて,都市と地域の再生・国家改造と中央‐地方関係再編・生活における主体性の確立と新しいライフスタイルの構築を追求したいという願いがある.
 ところで,新たな社会形成の目標を,生命と生命感覚が重視される社会,「生命化社会」の構築に置き,「生命化社会」の構築に迫る手段を「地域の再生」に求めるという試みは,ある認識を根底に置いている.ここに一端を記そう.歴史は個々人の生命と生命感覚(生命の尊厳を含む広義の自由)を重視する方向に動いている.近代社会は植物的に生きてきた人々に自由を与えたという点でそれまでの社会と画期的に異なる社会である.そこでは,中世的世界と異なり,特定の階級・階層を離れ広汎な人々に自由に生きる可能性(精神生活の可能性)が開かれている.ルネッサンスに萌芽した生命感覚への憧憬は近代において大衆のものとなった.もちろん幕が開いてもそれが現実のものになるまでには時間が必要であった.近代社会の成熟に至る道は険しく生命化社会の実現は遥か前方にあった.真の意味における実現はいまだなされていない.途上にある.確かに,経済の成長とそれに導かれて出現した豊かな社会は「生命化社会」の実現に貢献した.しかし,その成果は部分的であり真の「生命化社会」に向けた過渡的段階に過ぎない.
 いま,われわれの国家と社会は「転換期」を迎えている.資源の浪費と環境破壊が当然のこととして認められてきた「成長期」は終わりを告げ,すなわち,資源と環境の問題に考慮が不要であった時代は終わり,いまやわれわれの国家と社会は資源と環境の問題を前提とすることなく新たな展開を試みることが不可能な時代に到達した.いま国家と社会は資源問題と環境問題を克服する力をその内部に用意しなければならない.そしてまた,国家と社会は,都市と地域の再生,国家の改造と中央‐地方関係の再編を実現する力をその内部に用意しなければならない.新しいライフスタイルの構築という課題は,この時代における国民的課題である.いまわれわれが実現しようとしている「生命化社会」は,単純に,「成長期」における国家・社会の延長線上に描けない.
 いうまでもなく,生命体にとって最も基本的なことは生命の維持,生存である.「生命化社会」においてわれわれが強く願うのは,生命の維持を超えて,生命感覚が重視される社会の実現である.国家や自治体は,そして国家や自治体の政策はそうした社会の実現のために存在する.「政策」とは国家・自治体が行なう社会誘導の方策にほかならない.政策の問題についてふれておくことにしよう.「政策」は「生命化社会」,すなわち,人間の生命と生命感覚が重視される社会建設の手段である.生命化社会へ向け社会を誘導する具体的方法である.久しい以前,福田徳三の述べたところをみよう.そこには,いまなお,忘れてはならないことが書かれている.「社会政策は政策のための政策ではない.「社会」と「政策」の二語よりなる,「社会政策」において重きをなすところは「社会」の語であって,「政策」という語ではない.社会政策は社会のための政策である,政策のための社会ではない.そしてまた同時に,社会政策は,国家のためのみの政策ではない.国家範囲をできるだけ拡張して人間共同生活における人格対非人格の闘争を広汎にそのうちに取り入れるということは,国家の利益がこれを要求するからではない.国家人格が最高,全能,全治たるべきがためではない.かくすることが,人間共同生活の運動を善化し醇化し,これを人間の進歩に最も善く役立たしめうるからである.これを約していえば,かくすることが社会進歩のために最善であるからである」(福田徳三『生存権の社会政策』講談社学術文庫,118〜119 頁).生命化社会の構築は社会進歩の範疇に属している.
 本書では,コミュニティとリージョンを,生命化社会構築の,社会進歩の「実験室」とみなしている.コミュニティという日常の生活世界を,単に都市を構成する部分として捉らえる見方は偏狭である.コミュニティという日常の生活世界は,単に都市の部分,都市空間の一部として存在するだけではない.それは同時に,世界の隅々のコミュニティと連結し,そこに世界を内包する生活空間,地球社会の一部である.そうした見方を採用すれば,コミュニティは歴史の発展段階を具現する空間,社会進歩が具体的な姿を現す空間と認識されるであろう.コミュニティはその空間に世界をもつだけではない.世界に向けて生活様式と社会の在り方を問いかけるアクティブな存在である.以上のような意味で,コミュニティは,地球市民の基礎的生活単位であるということができるであろう.
 一方,リージョンは,現行の市町村,都道府県制度をもっぱら現実として肯定し,それを基軸に国家・社会の在り方を構想する立場に立てば,それ自体,プリンシプルをもつ地域共同社会にはなり得ない.それはせいぜい広域として指定される存在である.しかし,リージョンはもっと豊かに構想することができる.リージョンは現行の市町村,都道府県を超えて構想することができるし,国家を超えてすら構想することができる.国家の在り方,中央‐地方関係の在り方を,もっぱら,現状の国家と現状の都道府県,現状の市町村の関係として意識する必要はない.現状を超えた,新しい国家の在り方が,あるいは中央‐地方関係が構想されてよい.「転換期」を迎えているいま,現行の市町村,都道府県とは別に,リージョンの視点から国家の在り方を構想する必要があるのではないか.かつてオーダム(Odum, H.)はリージョナリズムを「セクショナリズムとは対照的な,国家統合への歴史的・文化的アプローチ」(Odum, H., Understanding Society, 1947)と定義し,リージョナリズムによるアメリカ南部の再生とアメリカの統一的再編を構想した.もとよりオーダムのリージョナリズムとその構想はアメリカが直面した時代の所産であり,今日,無前提にわれわれの受け入れるところとならないことは明らかである.しかし,その精神には依然有効なところがある.ノースカロライナはオーダムの提唱したリージョナリズムの精神を活かし,新たな発展を追求中である.日本の場合でいえば,現行の都道府県制度が一定の評価を得つつも,限界や問題含みであることが意識されており,リージョナリズムの精神に学びながら新しい国家・社会の在り方,中央‐地方関係を構想する意義は十分存在する.
 もっとも本書が扱っているリージョナリズムは極めて限定的である.アメリカ・リージョナリズムに関する論稿が用意されただけである.リージョナリズムの精神に基づいて,具体的にリージョンが構想されていない.それにもかかわらず,敢えてリージョナリズムに関する論稿を用意したのには,「生命化社会」を具体的に構想するには,現行の市町村,現行の都道府県を超えて,国家・社会を構想する考え方が必要ではないかという判断がはたらいている.「生命化社会」へ向けた国家・社会の再構築にコミュニティの視点,アクティブ・コミュニティの視点は不可欠である.しかしそれだけでは物足りない.コミュニティに加えもうひとつの視点が欲しい.ダイナミックなリージョンの構想という視点を「生命化社会」の構築に向けた具体的手段,「地域再生」の柱に加えたい.「過去の知的遺産」ともみられるアメリカ・リージョナリズムをいまここで敢えてもち出すのは,依然,その精神と内容に学ぶところが少なくないと考えるからである.アメリカ・リージョナリズムは地域資源と環境の問題を意識しつつ調和ある地域的発展を求めており,見方によっては,環境社会学の一源流をなす内容を有している.
 
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