|はじめに|

 本書は主にわが国の戦中思想を紹介しているが、単に紹介だけでなく、解釈している。
 紹介と解釈の違いは後者に比して前者にはさしたる視点を必要としないが、解釈には解釈のための枠組を必要とする。本書での解釈は「思想」と「実践」は不可分一体という命題を基礎にしている。

 この命題はマルクスのものであり、「商品の分析に関する学説史」で示されているものである。私はこの命題から解釈枠組、範式を引き出している。思想と実践の不可分一体というとき、マルクスにはみられないのであるが、私は実践の「アイデンティティ」という視点を付加してこの命題を取り上げている。この視点によって「解釈」が実践を根拠づける、あるいは正当化するということがはっきりする。
 「思想と実践」の付加分離という命題に立脚して私は多くの人の理解とは相違して、戦中思想と戦後思想は断絶しているのではなく、連続していると解釈している。「日本経済学」は非科学的で純粋経済学は科学的であるという常識に対して私はこの命題に立脚して前者が非科学的、イデオロギー的であるなら、後者も非科学的、イデオロギー的であると主張している。戦中思想と戦後思想を彼らは自明の理の如く断絶させる。

 「断絶」させている大きな理由は戦中思想は戦争遂行のためのイデオロギーであったという(政治的)解釈を受容しているからである。戦中思想も科学的性質を有するなどと主張すれば反動のレッテルを貼られるか、無視されるかであろう。しかしこのような(政治的)解釈を受容することが「日本経済学」を非科学的、イデオロギー的という評価に直結させることに私は反論している。戦中から戦後にかけて国民性が質的に変化しているならいざしらず、戦争に敗れたからといって国民性は簡単に変質するというようなものではないであろう。思想は国民性を表現しているということからすると思想も連続しているということであろう

   敗戦が日本にとって悲劇であったのは制度の崩壊にあるのではなく、倫理、文化を賭けて戦争を遂行したところにある。制度の再建は容易であるが、文化(日本精神)の再建は容易なことではない。もちろん「断絶」を主張する人はかかる悲劇の認識はない。
 思想と実践の不可分離という命題について第一章、第三章で説明している。

 思想解釈の一つの例示を戦没学生の手記、手紙を載せている『はるかなる山河』『きけわだつみのこえ』の一集と二集、これら三冊の編集方針の相違から読みとってみよう。(「『きけわだつみのこえ』を解釈する」山口経済学雑誌四七巻二号、一九九九年三月)。

 第二集の「あとがき」で編集員・平井啓之は第一集に比べて「『第二集』には/昭和の日本が経験した戦争の悲劇を総合的に、またある程度客観的に、とらえようとする努力がみられる。」と述べている。古山洋三は「『山河』と『一集』の間には編集上の力点の相違がある。/前者は人間性により力点をおき、後者は平和により力点をおいている」と語っている。

 第一集編集の顧問格である渡辺一夫は次のように述べている。「僕は、かなり過激な日本精神主義的な、ある時には戦争謳歌にも近いような若干の短文までをも、全部採録するのが公正であると主張したのであるが、/現下の社会情勢その他に、すこしでも悪い影響を与えるようなことがあってはならぬ」と批判された渡辺はやむなく出版部の意見を受け容れた。実際、第一集では野元菊雄や中村克郎によって収録を拒否された手記がある。これらの手記は第二集では戦争の実相を伝えるということで平井によって収録された。

 これらの手記を掲載することは平和運動のバイブルとしての役割に傷をつけると一集の編集員は考えた。星野芳郎は「一集は、戦場にむかう自己の運命について悩みや苦しみの言葉が主として採録されていて、最後には人間的な苦しみも捨てさって死んでいったものの言葉は、ほとんど取り上げられていない。悲劇は苦しいというめき声をあげることだけにあるのではなく、自ら思考を切断して苦しみもなくなることにこそあったのだ。/誤った編集方針に戦没学生の人間像は現象的にもゆがめられ、本質的にも悲劇の底の深さが明らかにならないという結果をきたした」と批判している。

 中村や野元によって拒否された遺稿を幸いにも私たちは第二集で読むことができる。木戸六郎、色川英之介のそれを読んで一集の編集員が如何に浅薄な政治的平和主義に取り憑かれていたかを知る。木戸六郎は「徴集猶予奉還」運動の中心人物であったという理由で野元に拒否された。当時、学生の兵役猶予については一般人から当然、学生は優遇されているという批判があった。木戸は戦いへの参加の時が近くなるにつれて「徴集猶予返上」運動に熱心になったという。野元は木戸はおおくの友人たちを戦場に引き込んだのだから死をもってあがなわなければならない罪を犯した、人間としての罪を犯したのだから、木戸に平和運動のバイブルである『わだつみ』の場を提供することは許されないという。はたして木戸の心性は野元に比して下劣であったであろうか。中村は星野に答えている。「(ほとんど取り上げられていない)どころか、細心に読んでゆくならば一集の到るところにみちみちていると私は思う。」中村の星野への反批判は皇道主義者の用語(八紘一宇、万世一系、天壌無窮、承詔必謹)を書き連ねている手記も採用しているのだから星野の批判は当たらないというものである。中村はこれらの用語自体が軍国主義を意味するものと考えている。かって軍隊は米英語を敵性用語として使用を禁止したのであるが、中村の反批判はこれと同じである。戦後の中村はこれらの用語に激しい嫌悪感を抱いた。用語の意味はそれを位置づけている観念体系のなかで付与されるのであってその用語を黒塗りしても思想の批判にはなり得ない。「言葉狩り」は最も安易な思想解釈であり、イデオロギー制作である。木戸や色川と同世代で同じ経験を共有している野元や中村が戦中の実践、価値観を語ってくれるなら、「戦争体験」の思想化に大いに貢献したであろう。中村は「戦没学生記念会」を設立した意図を「戦争体験の思想化」であるといっている。「思想化」とはどういうことであろうか。まさか軍国主義用語とされているものを抹殺することではないであろう。中村は「思想化」のためには自身の戦中の実践と戦後の実践を比較検討しなければならない。戦没学生の手記や日記を読むことができた彼は彼らの心情を理解するために彼らの価値観、立場にそって読むべきである。戦後の価値観、立場からの解釈では決して戦没学生の生の声を聞き取ることはできないであろう。

 第八章、第九章で尊徳思想を解釈している。尊徳は規範を説き、規範の実践を求める。尊徳の教化が実をあげるには自分自身が率先して規範の実践をなさねばならない。彼の思想は結果的に思想と実践の不可分離を示している。彼が「心身一如」「体と気の不可分離」と表現していることである。「七章、西田幾太郎の日本文化論」では西田が皇室を日本文化の核として位置づけている所以を解釈している。「日本文化論」は日本人固有の論理を明らかにしようとしている。「日本経済学」はイデオロギーで非科学的であるというレッテルを貼られ、戦後、「日本経済学」は消失した。私は「日本経済学」の構造を論じる。「東亞協同体の思想構造」では協同体論者の思想を紹介している。私は思想を社会再生産に位置づけて解釈している。これの概略は『資本主義社会の再生産と人権概念』(晃洋書房、一九九三年)で展開している。

 
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