|はじめに|

 この 10 年以上,ラベリング論の視点を用いて社会的差別に関しての社会学的研究をしてきた.正直言って私自身,社会的差別研究のみに専念してきたわけではない.もともとアメリカ社会学の学説研究をしてきた身であったし,そうした仕事をやりながら,他方で地域社会の要請から地域のまちづくりのような研究もしてきた.それが何故,差別研究かといえば,私たちの社会には,残念ながら,差別が後を絶たないからである.
 現代の社会的差別には,「部落差別」,「人種差別」,「障害者差別」など厳しい人権問題を内包している差別事象から,「女性差別」や「老人差別」のような多少見過ごしやすい差別事象にまでわたっている.「女性差別」の場合,男性による女性に対する差別であるが,だからといって夫婦の間で差別が常態化しているのかというと,そうではない.むしろ「女性差別」とは,社会的な参加,例えば職場での扱い,職場進出・政界への進出,指導的領域への進出を阻んでいるという種類の差別であり,時として精神的暴力と物理的暴力によるセクシャルハラスメントとして現出する差別である.
 これに対して「被差別部落の出身だから」という理由で差別されてきた「部落差別」,「外国人だから」だとか「黒人だから」,「アジア人だから」といった理由で差別されてきた「人種差別」,「ユダヤ人だから」といった理由で差別されてきた「民族差別」などは,結婚差別や職業差別など,深刻な差別を生んできた.そして,差別のみならず,偏見のような意識や感情レベルでも激しいものを生んできた.
 ここで考察したエイジズム(老人差別)は,そこまで厳しい差別を生んでいるとはいえないであろう.だが,わたしは,バトラーがいったようにレイシズム(人種差別),セクシズム(性差別)についで,このエイジズム(老人差別)も,差別問題として扱うべきだと思う.私が「老人差別」を選んだのは,この差別が差別問題として人類にとり最終的に扱わなければならない領域と思うからである.
 本書は,社会学の理論でいうと,相互作用論やラベリング論という文脈での研究作業である.ただ,資料の多くは,アンケート型の調査データを利用している.その点では,実証的な方法から得られたデータを使った,ラベリング差別論の視点からの老人化研究となっている.相互作用論と実証主義の双方を取り入れたかたちでラベリング差別論の研究をしている.極端な実証主義を標榜することは,問題と思うが,社会をよりよくしようとする武器になる理論や仮説には,実証主義的視点を持ち出すことが必要だと考える.その意味では,マートンの中範囲理論のような取り組みこそ,必要だと考える.


 本書が,そうした矛盾した視点を持ち込んでいるとすれば,それは上記のような理由からである.実証主義への継承と発展を唱えたデュルケームの自殺の統計データの利用のように,個々の特殊データが集合すると,そこにおいて初めて個別性からは捉えられなかった「社会的事実」が捉えられるものである.実証主義の方法論的客観主義を批判し,社会学における質的データを重視する学派の場合,質的データを好んで集め,それを分析するわけであるが,果たしてその集めた研究者がどこまで調査のなかから「本物」をSんでいるかは,確証できない.それは本人が正確なデータを集めているという,他者側からの信頼でしかないのである.私の経験からも,鋭い感性をもっていなけば,真実をSみ得ないし,また語り手も誤っているかもしれないことに気づけない.それを判断するのも研究者だとすれば,科学データとして,量的データより質的データの方が良いという根拠はないように思う.科学的データに関して,質的データを重視する学派の科学的根拠は,研究者の真摯な態度で被調査者から聞き出したものだという信頼に依拠するしかない.その意味では,ロマンティックな世界でしかないのではないだろうか.そのことに科学の信頼や科学の発展を期待するとすればわれわれ人間が要する対価が,あまりにも大き過ぎるのではないか.それからすれば如何に調査データが量的であっても,回答は本人が答えたものであれば,多少の歪んだデータがあるとしても,全体的なデータから出てくる知見の方には,そこまでの歪みが入るとは思われない.量的データを丹念に集め,積み上げていく研究の方に,科学の総量評価からみて軍配を挙げたくなるのである.要は,質と量のデータは,ケース・バイ・ケースで利用すればいいというのが,私の見解である.
 今回の研究では,直接の聞き取り調査のデータは使っていない.高齢者の差別について聞き取りも手法としてよかったかもしれない.しかし,拾い集めた個別データは,どこまでも個別データでしかない.それに,差別問題への感性を研ぎ澄ませば,量的なデータからも,差別の一面を探ることが出来るし,全体のなかから差別の現状を捉え,理念型も構成できるし,心理現象も捉えることが出来る.むしろ量的データを構成変数として解釈するなかで,掘り出し型の発見項目があれば,その方がよいのではという判断に立っている.
 われわれに課せられているのは,学問の流行現象を追うことでもなければ,ひたすら批判精神で科学の真実を追い求めることでもないのではないかと思う.どうも,近年の社会学の動向をみていると,相変わらず社会学は輸入学の伝統の域を脱していないし,いまだに日本社会学独自の知の体系(国際的に著名な社会学理論)を生み出さずにいるようである.
 私の作業は,知の体系をうちたてようとするものではない.本書はそれを目指してはいない.それでも,日本の社会には未解決の領域,誰もがやろうとしない領域,気づかれていない領域などが,まだ残っているように思う.この書において私が試みたのも,今日,高齢者問題を福祉,社会保障,家族論などといった視点でアプローチする研究は,膨大な数にのぼるが,高齢者の差別研究というものがまだ少ない現状で,ささやかなりに寄与できればと思ったからである.
 章別の構成を簡単に説明しておきたい.
 第 1 章は,戦後我が国で高齢者を論じ,研究してきた成果をまとめたもので,やや学説風に流れを整理し,社会問題研究から老人差別論の研究の必要性を論じたものである.
 第 2 章は,筆者自身のラベリング差別論の視点を論じたもので,今回,この書物のなかに入れるにあたり加筆したものである.この論文は,ラベリング論の限界を超克する方途として差別論へと視点をシフトしたものである.
 第 3 章は,ラベリング論を地域社会の産業構造の違いのなかから高齢者認識の地域差をみたものである.高齢者をみる文化構造の分析も行っている.それと高齢者ラベリング差別論の視点を最後に展開している.
 第 4 章は,老人呼称によって老人の差別言語や老人呼称間の連関性をみたものである.若者と高齢者の老人呼称に関する把え方の違いを分析している.
 第 5 章と第 6 章は,烙印者の分析で,第 5 章は若者の老人差別意識の分析をしたもので,第 6 章もその後続で若者が抱く老人差別感を言葉のレベルや老人イメージなどを分析している.
 第 7 章から第 10 章までは被烙印者である高齢者の分析を行ったもので,ラベルを受ける側の考察を行っている.
 第 7 章では,老人ラベリングの側面から高齢者がどのような認識をしているか,特にここでは老人自己成就意識の存立基盤と老人意識類型を構成して,現実にこうした意識の連関などを分析した.これを地方中核都市である宮崎市で行った調査データを分析したものである.
 第 8 章では,第 7 章で分析したものを産業都市で,しかも政令指定都市のなかで一番高齢化率の高い八幡東区の尾倉地区の高齢者を対象に行ったものである.そして,宮崎市との比較研究を行っている.
 第 9 章は,同じく第 7 章,第 8 章と同じ視点で過疎化が著しく,全国で一番高齢化率の高い東和町と,隣接している橘町で実施した同種の調査を,同じような角度で分析したものである.
 第 10 章は,第 9 章と同じ調査を使って高齢者自身の老後観や老人差別,高齢者が抱く老人ホームなどを分析したものである.
 終章は,本書で提起した老人ラベリング差別論の知見と今後の課題を論じたものである.
 本書は,今回新たに 4 本の書き下ろした論文を加え,私がここ 10 年ぐらい書き溜めてきた論文を整理し,既発表の論文にも手を入れて,書き直した上で上梓したものである.
(以下省略)

1999 年 11 月
辻 正二

 
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