|はじめに|

 本書は、価値判断の問題―とりわけ価値言明の真理性の問題(1)―に関する私の考察を、ある程度体系的な形で提示したモノグラフィーである。その中で、特に「価値判断の構造」の分析がこの問題追究のための 経 をなしており、そのためこの書のタイトルにもそれを採用することにした。
 「価値言明の真理性の問題」は、おそらく価値判断に関する種々の議論の中でも、最も枢要な、そして興味深い問題であると思われる。事実この問題は、少なくとも古代ギリシャの昔に「正義に果たして自然的基礎ありや」という形で提出されて以来、現代に至るまで、各時代の背景を陰に陽に受けつつ、永劫回帰しつづけてきた哲学上の主要問題の一つである。またこの問題は、けっして単に哲学者の高踏的な趣味に留まるものではない。それは、裁判の客観的妥当性や経済政策の基本方針等についての議論に最も根源的な理論的基礎を据えるという意味において、同時に深く現実に根ざした問題でもある。
 ここで、まず初めに、本書における私の目的と立場について述べておきたいと思う。本書の目的は、第一に、価値判断の構造の分析という理論構成を用いて、「価値言明の真理性」について、それを肯定する可能性の存在を示そうとすることにある。そして、さらに、一貫した同じ理論構成のもとに、価値に関する他の主要問題(「善」の概念の単純性の問題、G・E・ムーアの「直覚」の概念の分析、価値言明の真理性の問題に対する目的論的説明の意義とその限界等)について、私の考えを示そうとするものである。(本書の目的のより詳細な説明については、この「はしがき」のすぐ後の「本書の目的」と題する項を参照されたい(2)。)本書では、それらの各問題について、できるだけ明確な解答を与えるように心がけた。
 また、私の立場については、メタ倫理学上のコンヴェンショナルな三分法(3)に従うならば、それは基本的には自*然主義の考え方に立つものであると言ってよいと思う。しかしこのことは、直覚主義や価値情緒説が問題とするに値しない見解であるというわけではけっしてない。むしろ私見は、それらの説に対しても多かれ少なかれ同情的な立場をとるものである。それは、ちょうど巨象を撫でる群盲の寓話のように、それらの説にも、少なくともある意味で一面の真理が含まれていると考えるからである。すなわち、たとえば、直覚主義者はしばしば「それ自身において善いものは直覚される以外にはない」と主張するが、この「直覚」というものを――G・E・ムーアはこれを「証明することができない」という意味で用いたが――「認識領域から情緒領域へのア・プリオリな対応(心理写像)による直接的な判定」という意味に解するならば、私もそのような対象は直覚されるべきものであると考える(4)。のみならず、私は、すべての対象の価値判断についても、究極的にはそれは直覚によってなされるものであると考える(ただし、このことは、特に、それ自身において善いとされる対象の価値判断については、いかなる場合においても全く説明を与えることができない、ということを意味するものではない)。また、価値情緒説との関係においては、それがはっきりと断定する「価値言明には真理値を考えることができない」という基本主張に対して、そのように速断するのには留保が必要であると考える点、さらに倫理学の科学化が可能なのではないかと考える点――これらは極めて重要な相違点であるが――を別とすれば、私見には、情緒説と共通する部分も少なからず見られるものと思われる。以上に述べたことを換言するならば、本書は、自然主義の立場に基本的に立脚しつつも、いわば上記の三つの学説(通常の〔一般に見られる〕形態の自然主義、直覚主義、価値情緒説)を止揚しようとするものである、と言うこともできる。そして、同時に、従来の三つの学説のどこに誤謬や不適切な要素があると考えられるかを示そうとするものでもある(第七章および第一〇章参照)。
 なお、上の記述において、私見が自然主義的な立場に立つ旨を述べたが、そのことは必ずしも、「善い」という価値概念がしばしば行為遂行的な役割をもっている、ということを否定するものではない。実際私も、「善い」という語は通常多かれ少なかれ行為遂行的な働きを行なっていると考えている。
 次に、本書の構成について触れておきたい。拙著は、目次を見てもわかるとおり、一一章から成っている。このうち本題――価値言明の真理性の追究を初めとする価値の主要問題の考察――にとって内容的に最も中核的な位置を占めるのは、第四章から第七章までの四つの章である。それより前の三章は、それらの章で行なわれる議論のための予備的考察であると言ってもよく、またその後の諸章は、主としてそれら四章で示した趣旨を補足したり、具体的な問題に応用したりしたものである。ただ第八章――「本問題に関する各論的検討」と題する章――は、主として、ここで提出した理論――価値判断の構造の分析――によってどのような歴史上の価値の主要問題に解答を与えることができるか、すなわちこの理論が価値判断の各論的諸問題の解決に対していかなる有効性を有するのかを示そうとするものとなっている。そしてそれは、同時に、価値言明の真理性の問題に関する私の考えをより詳しく理解していただく上でも、少なからぬ役割をもっているのではないかと考えている。(なお、第九章については、それは元来、本書の他の部分〔本来の論文〕とは独立の論文として書かれたものであった。けれども、それが内容的に既に作成してあった本来の論文を補足するものであることから、本書においてはそれを
後者の中に組み入れて、全体として一つの統一的な著作としたものである(5)。)
 さらに、本書の性格について一言するならば、拙著は、本題に関する内外の参考文献に基づいて自分の立場を既に在る諸学説の中に位置づけたというよりも、むしろ自分のこれまでの思索の結果到達した現在の自説をより積極的に展開したものとなっている。その意味で、本書は、相当独自性の強いものになっているのではないかと思う。実際、この書の内容の多くの部分は、種々の機会に自分の考えを書き留めてきたメモ書きを材料として記されている。本書の内容を形成するに当たって、そのような方法を採ってきたのも、及ばぬながらも――カントも繰り返し強調したように――哲学の生命は自ら考えることにある、という気持ちからであった。
 しかしこのことは、科学や哲学の文献を読むことにあまり意義がないというわけではけっしてない。それどころかそれには大変大きな意義があると思われる。すなわちそれらの文献は、哲学的諸問題の所在を我々に提示してくれると同時に、さらにそれが現在どのような理論的情況にあるのかを示してくれる。そしてそのことによって、自分がある問題を考えていくための材料〔知識〕が与えられるとともに、また自分が主体的にその問題を考えていく際に、自分の考えをその問題をめぐる諸説と理論的につき合わせてみることによって、自説を批判的に検討し、必要に応じてそれを修正することが可能となるからである。本来、哲学的問題を発見し、それを解決していこうとする知的営為である哲学が、学説の注釈的研究に傾きすぎることは必ずしも賢明なことではないと思われるが、他方、その問題に関する知的情況を軽視することによって「思うて学ばざれば則ち殆うし」の状態に陥ることも同様に警戒しなければならないことだと思う。「学ぶこと」と「思うこと」をうまく調和させることが大切であると思われる。
 なお、ここで、本書の記述について一つお断りしておかなければならないことがある。それは、この書には、私自身の造った概念や、一般に用いられている語でも通常とはやや異なるニュアンスをもって使われているものが見い出されるということである。「心理写像」、「認識意味水準」、「狭義の心理的意味における『善い』という概念」等の言葉は前者の例であり、また「認識意味」などの言葉はおそらく後者に属するものであろうと思われる。文章はなるべく一般の人々に広く認められている共通の語を用いて書くべきものであるから、そのような特殊な言葉を用いることは、できるかぎり避けるべきであることは言うまでもない。しかし「価値言明の真理性の問題」の考察においては、そのような概念を用いることによって問題追究のための理論構成がしやすくなると考えたことから、あえていくつかの造語を用いた次第である。ただ、本書の記述においてそのような語を用いる場合には、その語がどのような意味をもった語であるかがわかるように、できるだけ明確に説明を行なっておいた。上に記したような事情を理解し了承していただければ幸いである。
 本書を刊行するに際して、私は、まず、慶應義塾大学名誉教授の沢田允茂先生と東京大学名誉教授の碧海純一先生に心からの謝辞を捧げたいと思う。沢田先生には、この小著の草稿を作成していた時期――一九八八年の春頃――に先生の研究会に参加させていただき、そこで本書の内容に関するいくつかの点(価値概念の行為遂行的機能等)について貴重なご教示を賜わった。さらに、本書の草稿がほぼ出来上がった後にも〔一九九〇年一〇月〕、先生のご自宅で、私がその基本構想についてお話し、適宜先生からのコメントを拝聴するという光栄に浴した。同先生のご厚意に対して、衷心よりお礼申し上げたい。けれどもここで示した私の考え方の中には、本問題に関する先生のお立場と多少なりとも趣きを異にする点も含まれているかもしれない。したがってそのような意味からも、当然のことながら、本書の内容に関する一切の責任は私自身に存する。しかしながら、もしも仮に拙著にいくばくかの価値があるとするならば、それは、先生のご指摘をもとに、その草稿に対して再考を加える機会を与えられたことによるところが大きいと思われる。
 また、碧海先生には、拙著の草稿の全編を精読していただくという誠に得難い恩恵を賜わった。しかもその後〔一九九一年五月〕、先生のご厚意により、拙稿の内容に関して、長時間にわたり貴重なお話を伺う機会を得た。その時に与かった今後の研究の重要な指針となるようなご指摘と温かい励ましのお言葉は、今でも忘れることができない。それは私にとって、この上なく有意義な時間であった。私は自分の人生において、そのご著書を含め同先生から学恩を受け、それを自らの思考の糧とすることができたことを幸甚に思うものである。ここに、同先生に対し、改めて深謝の意を表する次第である。
 ところで、前述のように、本書の草稿を作成したのは一九八八年のことであるが、それから四年後の一九九二年には、それを冊子の形にして、哲学や倫理学専攻の研究者など本書のテーマに造詣の深い方々にお読みいただいたことがあった(ただし、先にも触れたように、第九章はその後執筆したもので、この時には除かれていた)。特に、深谷昭三(甲南大学)、藤本隆志(東京大学)、山内友三郎(大阪教育大学)の各教授は、その内容に関して、私信を通じて有益かつ丁寧なコメントを寄せてくださった。上記の諸教授には、ここで重ねてお礼を申し上げたい。
 さらに、一九九三年の一月には、私もその会員である東京法哲学研究会において、質疑応答も含め約二時間半にわたり、本書の総論的部分(第四章〜第七章、および第八章・第三節)について、やや要約した形で研究報告を行なった。その際、井上達夫教授(東京大学)を初めとし、佐藤節子教授(青山学院大学)、桂木隆夫教授(成蹊大学)、名和田是彦教授(東京都立大学)等の出席者の方々から、多くの有意義なご意見・ご指摘をいただいた。また、その時は出席されていなかったが、後日、嶋津格教授(千葉大学)からも、その報告に関連して有難いご助言を頂戴した。それらの方々に対しても、この場を借りて、改めて謝辞を申し述べたい。
 本書は、価値判断の問題についての現在の私の考えの概略を述べたものであるが、もとよりこれは私のこの問題に対する最終的な意見ではない。それは、これからの思索のための原案を成すものである。したがってその内容には、必ずしも追究が十分ではないと思われる箇所も少なくないが、ともかくもこの問題についての私の考えをできるだけまとまった形で提示し、それに対する多くの識者の判定を仰ぎたいと考えて、あえて未熟な私見を世に問う次第である。読者の方々からご教示・ご叱正を賜わり、それによってさらに自らの思索を進めていくことができれば幸いである。
(以下省略)


一九九八年五月二一日
小 林   誠

 
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