|はじめに|
 本書が刊行されてから数年ののち、いま日本語版の翻訳が出版されることとなり、本書の理論的アプローチを貫くパースペクティヴとその主導的な考え方をさらに明らかにする機会を得て嬉しく思っている。ここではつまびらかにできないが、本書の公刊ののち、とくにビーレフェルト大学でのゼミナールや、その他の大学で、本書に関する批評や論議が行われており、私はそのことから多くを学んでいる。著者がみずからの著作を多少の時間を経てから読んでみると、その一部はいっそう明確に表現できるし、その一部についてはさらなる説明を必要としている。
 ここではほんの少しの提言をすることに甘んじざるをえないし、それら論証の仔細については本書にゆだねざるをえない。
(1)本書は、システムと名づけられる特別の種類の対象、言い換えれば、システムとしては言い表せない対象(たとえば人間)とは区別される特別の種類の対象を取り上げているのではない。本書が主題として論じているのは、ある一つの差異、つまりシステムと環境の差異である。そのことの出発点は、観察しえない際限のない世界が一つの境界線にによって裁断され、その結果として、一方の側でなんらかのシステムが活動しており、その他方の側はそのシステムの環境(Umwelt)とみなさなければならない、ということである。そうした多種多様なシステムが存在しているのであり、分析対象となっているシステムごとに、そのシステムからみてそれとは別のものが環境なのである。
(2)そうしてみると、古典的なシステム理論では、(具体的なシステムから区別される)「分析的」システムが取り上げられており、何がシステムであると観察者によってみなされるかは、観察者しだいであることがみてとれる。そのことは一部は正しいが、一部は誤っている。正しいのは、そうしたシステムとその環境の区別を適切に把握できるのは観察者だけであるということ、ならびに観察者が彼の生活のいかなる要因のゆえにいかなるシステムに関心を寄せるのかを決定するのは、かれの専管事項であるという点である。しかしながら、観察者は、何かあるものを勝手にシステムであると言うわけにはいかない。というのも、そうするのなら、システム概念はその意味を失ってしまうからである。それぞれの観察者にとって、なんらかのシステムがシステムであるのは、そのシステムがそのシステム自体のオペレーションをとおしてそうしたシステムへとみずからを作り上げているばあいにかぎられるのである。私の出発点はシステムが実在しているということであるが、しばしば批判されているこうした表現をするさいに、私が念頭においているのは、まさしく以上のことなのである。というのもそうでなければ、システムについて語ることはなんの意味もないであろうし、まったく存在しないことがらについて取り上げている部厚い著作を読むことを読者に無理じいすることはなんの意義も認められないだろう。
(3)いかにしてあるシステムはみずからをシステムに作り上げるのか? システムがみずからをシステムにシステムに作り上げるのは、それ自体のオペレーションをそれじたいのオペレーションと結びつけ、そうすることをとおしてなんらかの環境と一線をかくすることよってのみである。システムのオペレーションの継続は、システムの再生産なのであり、それと同時にシステムと環境の差異の再生産にほかならない。そのことは、――私には不可避的だと思われるのだが――なんらかのシステムは当のシステムとその環境の差異であること、言い換えればシステムは、そのシステムみずからがおこなっているなんらかの区別であり、そうした区別において当のシステム自体がその区別の一方の側として再び現れてくる区別にほかならない、という逆説的な定式化に行き着く。こうした出発点となる考え方によって、古典的な二価的論理学やそれに依拠する認識論の立証可能性は粉砕されている。アインシュタインの宇宙論のばあいと同様に、システムと環境との区別(アインシュタインのばあいは運動と加速の区別)による世界の観察は、観察者の立場しだいなのである。
(4)こうした観察者の立場は、世界のなかに位置するほかはない。さらに観察者もまた次から次へと観察をおこなわなければならない。観察に観察を、したがってオペレーションにオペレーションを接続しえなければならない。そのことは、ある種の「自己論理的な」推論を観察者に強いている。というのも観察者が世界においてシステム自体を再生産している諸システムを観察するばあい、観察者は自分自身をも何らかのシステムとみなすことを強制されているからであり、そうでなければ、かれはそうした諸システムに対するみずからの観察を観察しえないからである。そうしてみると観察者は、彼自身の観察の諸対象のうちの一つにほかならない。そのようにしてはじめてシステム理論は、ある種の普遍的理論となり、言い換えれば世界に関する理論となり、そのシステムをも含むあらゆるものを包含し、しかもその理論によって観察されるすべてのものを、なんらかのシステムか、そのシステムの環境のいずれかとみなしている。
(5)こうした途方もなく広範囲に及ぶ考察は、社会学では今日まだまったくなじみのないものである。こうした自己準拠的な構造で作動している認識論は突飛なものではなく、こうした認識論が説得力のある論拠を有し、経験的な対象物を十分に取り扱いうるということを見極めるためには、ハインツ・フォン・フェルスターといった物理学者、H・Rマトゥラーナのような生物学者、あるいはジャン・ピアジェのような心理学者をたずねて教えを乞わなければなるまい。ほかならね社会学は、みずからの理論の力不足ゆえに、こうした学問的領域を越えている議論にこれまで参加できずにいる。本書によって提示される社会システム理論は、この隔たりを克服することを企図している。
(6)社会学の学問領域を越えているこうしたオリエンテーションは、還元主義的な手続きによって、社会秩序が心理学的事実、生物学的事実または物理学的事実に帰せられてしまうということを含意しているのではない。言い換えれば物理学的アナロジー、生物学的アナロジー、または心理学的アナロジーを用いて、あるいはしかるべきメタファーによるレトリックを使用して、社会秩序のあり様が論証されるということが、こうしたオリエンテーションによって意味されているのでは断じてない。社会学以外の学問において最初に用いられた諸概念が使用されるばあいに、こうした非難がまさに社会学者から頻繁にくりかえされており、それはまるで条件反射のようである。とりわけ「オートポイエシス(Autopoiesis)」概念のばあいがそうである。しかしながら、そうした非難は、本書で提示されている理論そのものが理解されていないことを物語っている。というのも、この理論は、まさしく徹底したシステム相対主義を主張しており、アナロジーによる推論のさいに前提されなければならない。リアリティの存在論的な連続をことごとく排除しているからである。そんなわけで、生態の細胞の水準においてオートポイエシス的な再生産、オペレーションの閉鎖性、あるいは進化などが存在しているがゆえに、社会システムにおいてもそうした諸構造が存在しているはずだということが、本書で論証されているのではない。本書では、この種の事態がはたして社会システムにおいて立証されるかどうかが問われているのであり、その結果として、生体の秩序においても、また社会秩序においても実現されている、きわめて一般的な構造が、本書のテーマとなっているのである。こうした一般的な構造が生体システムにおいて最初に発見されたということは(プロセスという範疇が法学で最初に、ついで化学において発見されたということと同様に)、科学の歴史にとっては偶然なのである。とりわけ社会学が科学的な学問として自立したのがごく最近のことであるという事情のゆえにそうなのである。
(7)こうしたきわめて一般的な考え方を社会学の対象領域に適用し、社会システム理論として定式化しようというのであれば、社会システムを再生産しているオペレーションについて、また環境としてそのシステム以外のものであり続けるものからそのシステムをそうした再生産によって区別しているオペレーションについて、精確に特徴づけることが不可欠である。この点において、社会学でのこれまでの通例の行為理論は使いものにならない。というのもその行為概念が拠り所としているのは、生物としての人間や意識の担い手としての人間であって、社会的に構成される事態ではないからである。したがって、社会システム理論が、いま述べたシステム理論を用いて、そのオペレーションが閉鎖的で、そのシステム自体がみずからを再生産している、オートポイエシス的な社会システムを取り上げようとするのであれば、その基礎概念を行為からコミュニケーションへ切り替えなければならない。それにくわえて、コミュニケーションがコミュニケーション的行為にほかならないとか、コミュニケーションがあるシステムから他のシステムへの情報の移転であるといった通常のコミュニケーション理解は廃棄されなければならない。というのもそうした理解では、その理解の重心がコミュニケーションに関与した、生物、主体、システムにまたもや移ってしまい、したがってコミュニケーションによって作り出せないものに再び移ってしまうからである。そのオペレーションの閉鎖的なシステムに関する理論は、コミュニケーションしかコミュニケーションを作り出すことができないという命題を必要としており、またそうした理論はこの命題を支えることのできるコミュニケーション概念を必要としている。そんなわけで、この問題のために特別に本書の一章がさかれている。
(8)以上の帰結として、人間は社会システムの部分ではなく、その環境の一部であるとみなされる。人間がこの理論ではなんらの役割を果たさないとか、人間の偉大さがなおざりにされていると、この提言はしばしば理解されてしまっている。しかしながら、こうした推論をする者は、本書で提示される理論を理解していないのである。この理論の中心テーマはシステムと環境の差異である。筋道の通った考察をすれば、あるいは条件づけに関するサイバネティクスでの一般的なモデル(アシュビー)に基づけば、おのずから了解されるとおり、システムは環境なしには存立できないのである(ということはとりわけ、世界がシステムでないということを意味している)。人間が社会システムの環境だからといって、人間が見失われたわけではなく、市民社会に関する旧来の理論と比較してみると、人間の位置づけが変わるだけなのである。個人が、具体的で経験的な、物理的−化学的−有機体的−心理的な側面を有する統一体であると真摯に考える者は、個人を社会システムの部分であるとみなすことは不可能である。そのことにくわえて、きわめて多数の人間が存しており、したがってきわめて多種多様の人間が存在しているのであり、したがって、「人間」がテーマになる場合、誰について取り上げられているのかをそのつど知らないわけにはいかないということが銘記されなければならない。行為理論の視角から「主体」にアプローチしている従来の社会学に対しては、そうした通常の社会学が人間を真摯に考察せずに、人間についての経験的な指示物を欠いた、曖昧模糊とした概念構成物を分析対象とに仕立てていると非難されてしかるべきなのである。さらに、こうした通例の社会学は、過去や未来を指し示している時間次元において、人びとがそのつど同時に体験したり、行為したりしているという事実、したがって、企図される体験や行為の連続という点でのみならず、さらに、その同時性においても社会的秩序が保障されなければならないという事実を十分に顧慮してはいないのである。
(9)「人間は社会システムと環境のどちらに属するのか」というこの問題は、いうまでもなくシステムと環境が区別される場合にしか提起されない。もとよりこの区別を拒絶することは十分に可能であり、容認されている。だが、じっさいにその区別を拒否するのなら、全く別の問題定立、したがってまったく別の世界構成がおこなわれることになる。システム理論というのは、システムと環境の差異を手がかりとして世界を描写しているのだから、たしかにある種の普遍理論である。だがそうだからといって、こうしたシステムと環境の区別が世界描写についての唯一の可能な基盤であると、われわれのシステム理論が主張しているのではない。システム理論は、世界記述に関しての排他性要求を掲げるものではない。システム理論が、唯一の−正しい社会学理論であると主張しているのではない。しかしながら、科学の現在的な状況では、まずさしあたりこうしたシステムと環境の区別を用いることは多くの先行研究が存しており、それらを利用できるからにほかならない。このようなシステム理論と対比してみると、古典的な行為理論は、どちらかといえば、素朴な印象を避けられない。言い直せば、その行為理論は、説明をその課題として掲げる理論としてよりは、操り人形芝居としての役目を演じている、合理的選択の錯綜したモデルにみずからを縛りつけている。
 本書の構想についての以上の素描によって、たしかに難しいこのテキストに読者が接近するのが少しでも容易になることを切望するし、また本書をめぐる論議が、肯定する側にも実り多い形式でおこなわれることになることを希望したい。
 
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