|あとがき|
 大学講義用のテキストとして初版を刊行したのが、今から 11 年前になる。その間、「補遺」を加えて、増補版を刊行した。ところが、大学での講義の経験から、増補版を部分的ないし全面的に改める必要性を痛感していた。
 この度、出版社から増補版の残部も僅少となり、そのまま重刷したいという申し出があった。
 今や社会も急激に変化し、社会学の研究テーマもスタイルも多様化した。本来なら増補版を絶版にして、新たな構想のもとに新著を刊行すべきであるが、出版までの時間がそれを許さなかった。そこで増補版の一部の章節を削除し、新たに執筆した章節を加えて、改訂版として刊行することにした。この改訂版はおそらく私の最後の講義用テキストとなるにちがいない。
 講義用のテキストにこだわるのは、「社会学とはいかなる学問か」という知的好奇心に満ちた学生諸君の真摯な問いである。だが、私は単に社会学の学問的性格を述べることによって、学生諸君の問いに回答するものではない。社会学は現実科学(フライヤー)あるいは経験的現実科学(シェルスキー)である。社会学はその学名のもとで、社会といういかなる対象をいかなる方法によって社会的・歴史的現実を認識しようとしたのか(第 1 部)、あるいは社会的・歴史的現実がどのように社会学的認識を要請したのであろうか(第 2 部)。社会学の学問的性格の全貌はともかく、その一端を明らかにすることで、現時点で学生諸君の真摯な質問にささやかながら応答したのが本書である。
 この改訂版には「新明正道の綜合社会学」(第 1 部補章)を新たに書き加えた。恩師の新明先生は「社会学とはいかなる学問か」と自問し、独自に綜合社会学を提唱し、それを体系化しようと執拗に努力した。新明先生のモチーフは社会学は既存の権力に奉仕する御用科学でもなければ、単にコンピューターで既存のデータを操作する技術学でもない。そもそも社会学は既存の権力や制度のあり方を批判し、「社会のなかにある広大な問題とも対決することのできる現実的、歴史的、かつ実践的な意義」と結びつく「人間のための、人間による人間の社会学」にほかならない。
 さらに新明先生は東京都下の多磨霊園にある墓碑に「偉大な真理は批判されることを欲し、偶像化されることを望まない」と銘記している。この箴言は新明先生自身が社会学の研究において実行された証しであろう。それとともに、後学の私たちに新明社会学の徹底的批判を公然と奨励されたのである。それは本書の第 2 部第 5 章第 2 節で述べたカール・ポパーの批判的合理主義に一脈通じていると言えよう。社会学を学ぶにあたり、私たちは是非とも新明先生の批判的社会学の精神を継承したいものである。
 最後に、「社会学」を学ぶ学生諸君に期待することは、このテキストを学ぶのではなく、テキストで合理的・批判的に学んでほしい。要するに、このテキストの内容をそのまま鵜呑にするのではなく、自分自身で学問的に模索しながら、自分の問題を、自分の認識を主体的・創造的に習得してほしい。こうした学習態度の実践こそまさに批判的社会学の現在的な営為にほかならない。
 このテキストが学生諸君の一つの跳躍台として、社会的なものの見方、社会学的なものの見方を習得する一助となれば、望外の幸いである。
2001 年 11 月
  山 本 鎭 雄
 
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