|はじめに|
 平野禮次郎先生の思い出とともに

   研究室で、また現場で防汚業務に取り組まれている方々のなかには、本書を手にされて故東京大学名誉教授平野禮次郎先生(平成25年7月1日ご逝去)のお名前を思い浮かべる方も多いことと存じます。私自身は付着生物研究を勧められることは無かったのですが、先生が助教授になられて初めての卒論生、大学院生として動物プランクトン研究のご指導を受け、さらに水産増殖学講座および水産海洋学講座では教官としてお仕えするという栄誉に浴することができました。先生のもとでは、自分の専門以外の多くをお手伝いする機会をいただきましたが、今また、本来であれば先生ご自身が率先してお書きになったであろう推薦文執筆の機会をいただき、最後のお手伝いかと感無量でございます。
 私どもが学生であった昭和40年前後は、付着生物の問題と言えば、船底付着のほかは生け簀など養殖施設の海水交換阻害が語られるくらいで、「日本海海戦で我が国が世界最強のバルチック艦隊を撃滅できたのは、北海からの長旅で彼らの船に付着したフジツボのおかげだ」という、平野先生の無脊椎動物学講義の名調子も思い出されます。当時の対策は単純に「とにかく掻き落とす、塗料を塗る」という力業でしたが、かたや先生ご自身は、終戦間もない時代の卒論研究でそれまで困難とされてきたフジツボ類幼生の飼育を成功に導き、代表種についてノウプリウス期での検索表を作成しているなど、現在の防汚研究の王道でもある“生物種ごとの生態に基づいた基礎研究と応用研究”の先駆けとなっていらっしゃいます。のちに我が国は高度成長期を迎えるのですが、その原動力となった発電産業の方々が頻繁に来訪されるようになったのも、復水器冷却水などの水路、配管の閉塞が深刻になってきたことと、先生のご名声を聞きつけてのことだったのでしょう。やがて昭和50年代に入ると、学内では研究テーマとして付着生物を選択する学生も増え、大学の同級であった梶原武先生(東大海洋研究所名誉教授・故人)等とともに日本付着生物学会を創設するに至ります。
 先生は、基礎科学としても緻密な研究をされる方でしたが、実はそのポリシーは「研究のための研究をしないこと」、「社会のための出口を持った研究をする」で、事実、防汚研究に携わる方々とご一緒の時、また現場をお尋ねする出張などでは、日頃物静かな先生がいかにも楽しそうに振る舞われるのを目の当たりにすることができました。本書を通覧いたしますと、先生が直接に、また間接にお育てになった多くの弟子諸氏が執筆されているのに気づきますが、その方々が皆「社会のための出口を目指して」お仕事をされている様子が目に浮かぶように感じます。それが故に本書が、海洋生物研究に携わる者にとっては防汚という現実の技術開発にどう係わるか、また対象とするプラントはどのようなものであるかを知る、一方、技術者にとっては自然の生態系や付着生物とはどういうものかを知る良い手引き書となるに違いありません。防汚研究の先達であり、このハンドブックの刊行を心からお慶びになったであろう平野先生のお姿、お志を思い浮かべつつ本書をご推薦申し上げます。
 
               東京大学名誉教授 日野明徳


 一般社団法人火力原子力発電技術協会には、同じ課題を持つ会員同士が集まって情報交換や勉強会などを行う研究会が幾つかある。その中で最初に活動を開始したのが今回、このハンドブックを作成した「海生生物対策研究会」である。協会の研究会活動には多様なメリットがるが、どの研究会にも共通しているのが多様な企業・団体にわたるネットワークの構築である。海生生物研究会においても、海生生物の研究者、防汚対策技術や周辺技術の開発者、そして火力や原子力の発電所で海水設備の保守管理に携わる実務者といった幅広いネットワークが構築された。
 数年にわたる活動を経て、海生生物対策研究会では「もっと現場の方々に役立つ情報提供ができないか」との思いから、幅広いネットワークを活かし、事業用から自家用に至る海水冷却を利用している発電所で設備の保守管理に携わっている現場技術者のためのハンドブックを作成することとした。
 ハンドブックの作成にあたっては、海生生物対策研究会のメンバーを中心に付着生物研究の専門家から付着防止技術の開発や設備を維持管理するための分析機器等の開発などに携わる技術者、実際に設備を保守管理する現場の技術者など、それぞれの部門第一線で活躍している専門家が執筆を担当し、基礎知識から新技術や応用技術の実用事例に加え、開発を終えて適用箇所を模索している最新技術まで掲載するなど、充実した内容のハンドブックとすることができた。
 多方面からの切り口を持つこのハンドブックは、1章から順に読んで頂いても、また、実務の中で疑問に思った事や調べたい事を辞書的に特定の章・項を読んで頂いても良いように構成した。

 発電所の海水設備の保守管理は大変地味な仕事であるが、発電プラントの効率から周辺地域の環境や廃棄物問題など多様な課題を抱えており、発電所を運営する上では重要な仕事の一つである。地味ではあるが重要な海水設備の保守管理を担う現場技術者の方々に対して、その日常業務をサポートする目的で作成したのがハンドブックである。このハンドブックが常に現場事務所の担当者の机の上に置かれ、時には設備の保守管理作業の現場に携帯され、代々の実務者に引き継がれて使用され、多くの手垢でぼろぼろになるまで読まれることを期待している。

平成26年6月
一般社団法人 火力原子力発電技術協会 会長 伴 鋼造
 
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