|まえがき|
 有機スズ化合物,特にスズ原子にブチル基あるいはフェニル基が3個共有結合するトリブチルスズ(TBT)あるいはトリフェニルスズ(TPT)は,藻類および甲殻類などの多数の分類群の水生生物に対して毒性が強い.他種類の水生生物の付着を防止することが期待されるために,1960年代にTBTあるいはTPTを含有する船底塗料が開発された.特に,樹脂にエステル結合させたTBT基が,加水分解し溶出することにより,常に新しい塗料表面が海水に接することで優れた防汚性能を発揮するように設計されたTBTメタクリレ−ト共重合体(自己研磨型船底塗料)の開発に伴って,その需要が飛躍的に拡大し,全世界的に使用されるようになった.
 有機スズ化合物による海洋汚染および巻貝のインポセックス(雌に雄性生殖器官が発達し遂には不妊にいたる現象)関する研究が,英国のプリマス海洋研究所のBryanらのグル−プにより行われ,広範囲な海洋汚染並びに水生生物に対する有害性が危惧された.わが国においても精力的に調査研究が推進され,日本水産学会では,1992年4月にシンポジウム「有機スズ化合物による海洋汚染と水生生物への影響」を開催した.そのシンポジウムで,水域汚染の実態,魚類および環境生物に対する有害性および生物濃縮などに関する研究成果や海外における規制の動向について集約するとともに,研究の展望について検討し,その記録は恒星社厚生閣から単行本「有機スズ汚染と水生生物影響」として刊行された.
 わが国では環境庁などによる調査で広範な海洋汚染が明らかになり,関係各省庁や関係機関で使用規制や各種の対策が実施された.国際的には,有機スズ化合物の規制の在り方が,1996年に開催された国際海事機関(IMO)の第38回海洋環境保護委員会(MEPC)で審議が開始され,2001年10月にIMOが招集した外交会議において条約「船舶の有害な防汚方式の規制に関する国際条約(AFS条約)」が署名,採択された.現在,その条約の批准に向けIMO加盟国内で検討している段階である.
 このように,有機スズ化合物の使用および海域環境への排出については一定の規制措置がとられ,水域環境の汚染状況は次第に改善されている.しかし,汚染底質の有害性評価と除去の必要性の検討,水生生物に対する作用機構の深化など多くの課題が残されている.本書では,微量分析法,沿岸から深海あるいは外洋水域における動態および生物学および化学的視点による汚染実態の評価,底質中有機スズ化合物の食物網を通した蓄積過程,受容体およびインポセックスなど生物に対する作用機構,魚類やイガイによる代謝経路,甲殻類に対する有害性,魚類の免疫や繁殖過程に対する影響および海産哺乳類への蓄積過程に焦点を当てて,日本水産学会主催シンポジウム以降の進展する研究成果を取りまとめるとともに今後の研究課題や取り組みの方向性を展望した.本書の内容が,有機スズ化合物による海洋汚染や生物影響を検討する際の基盤的な知見を提供するとともに各種対策や規制を見直す際の手がかりとなり,海洋汚染問題の解決に役立てば幸いである.さらには,有機スズ化合物に関する研究において開発された手法や研究推進の考え方が,他の多くの有機有害化学物質,とりわけ近年開発が著しい有機金属化合物の海域環境における動態や水生生物影響の研究の推進において参考に供していただければ幸いである.
  2007年3月
山田 久
 
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