|序 文|
 1960年代に始まった高度成長の代償として沿岸各地に顕在化した,いわゆる「公害問題」に対し,日本海洋学会も積極的に対応すべく,1973年に海洋環境問題委員会を設立した.それから約30年が経過し,社会状況は大きく変化した.国や都道府県による排水規制,水質監視の強化,あるいは環境影響評価法(アセスメント法)や条例の制定により,無秩序な排水による汚染や乱開発が法的に規制されるようになり,また,環境に関する社会的な意識の高まりや,過去の「公害問題」の裁判の判決を背景に,政治や行政の判断も,環境をより重視したものになりつつある.
 一方,未処理排水の直接流入に代表されるような単純な因果関係で結ばれる沿岸域の汚染問題がコントロールされようになった代りに,富栄養化,有害プランクトンの発生,内分泌攪乱物質(いわゆる環境ホルモン)の蓄積などに見られるような人間活動による負荷が,沿岸域の生態系や物質循環の複雑な仕組の中で伝播しながら影響をもたらす,新たな環境問題が明るみになってきた.また,内湾沿岸部の埋め立て,空港や堤防などの巨大建造物の建設は,湾全体の物理的な流動に変化をもたらし,その結果として湾内の物質循環や生態系,そして漁業生産にも影響を及ぼす.したがって,人間活動と沿岸域の環境変化の間の因果関係を解き明かすには,より専門的な立場からの解析が不可欠な状況となっている.海洋環境問題委員会では,このような状況に対応すべく,特に環境影響評価に関わる調査研究の進め方について問題点を指摘し,シンポジウムの開催や出版活動を通じて,より適切な調査と解析手法に関する技術的な提言を行ってきた.特に,1990年代以降は,日本各地の沿岸域で計画されてきた開発・建設事業のうち,特に環境への影響が懸念される事例について,個々に小委員会を設置して検討を進め,日本海洋学会の機関誌「海の研究」誌上で提言を行ってきた(東京湾三番瀬埋立て,1993年;中海干拓事業,1996年;九州の干潟浅海域開発,1997年;中部国際空港人工島,1999年).
 本書が取り上げた有明海についても,諫早湾の干拓事業のための潮受け堤防の建設と,その後のノリの不作に代表される有明海の漁業への影響が大きな社会問題となった事態に対応すべく,2001年に海洋環境問題委員会の中に,佐々木克之委員を中心とした「有明海小委員会」を設置した.小委員会は,これまで数多くの有明海関連の会議やシンポジウムに参加し,あるいは自ら企画して,有明海の環境評価のための調査研究の進め方について積極的な発言を行ってきた.
 その内容は,「有明海環境悪化機構究明と環境回復のための提言」として,2001年と2002年の2回にわたり「海の研究」誌上に発表されている.これらの提言でも指摘されているように,諫早湾の大規模な干拓事業が,有明海の環境に及ぼす影響が大きいことは確かであるが,その具体的な影響と事業との因果関係,そして最終的な問題として漁業生産との関連を明らかにするためには,適切な方法による環境調査と得られたデータに基づく総合的な解析が不可欠である.本書では,その提言を自ら発展すべく,物理,化学,生物,水産の最近の調査結果をまとめ,現状を把握し,過去のデータから求めた有明海が本来もつそれぞれの特徴と比較し,それらを基に干拓事業などの開発行為の影響を総合的に解析し,最後に,環境回復へ向けた具体的な方策に言及している.
 これは,海洋の研究者集団が,沿岸域の開発による海洋環境への影響を客観的に評価し,問題提起する場合の一つのお手本のようなものと言える.いずれにせよ,未解決の問題を多く含んだ有明海の環境問題の解決に向けて,今後,本書が重要な役割を果たすことを期待している.  有明海小委員会メンバーを中心とした海洋環境問題委員会委員の熱意と努力に敬意を表するとともに,本書が広く活用されることを願う.
 2005年6月 日本海洋学会 今脇資郎(会長),小川浩史(海洋環境問題担当幹事)


はじめに
 有明海生態系を再生するために,生態系の劣化を引き起こした環境要因を検討して,再生案を提案するのが本書の目的である.積み重ねられた多くの資料と近年急速に進められた調査研究の成果を検討して,干潟域の減少,川砂採取やダムによる河川環境の変化および諫早湾干拓事業の影響について解析した.その結果,1980年初めからの有明海漁業の衰退は,月と地球の関係など自然現象から生じる潮位差の減少に加えて,干潟の消滅や河川環境の変化に伴う河口域の変化によって漁業環境が悪化し,さらに諫早湾干拓事業が潮流の弱まりや水質浄化機能の喪失を引き起こして漁場悪化に拍車をかけたものと推定された.生態系の変化は様々な環境要因や生物間の関係が複雑に関連して生じるので,変化を引き起こした要因解析は簡単ではないが,本書では環境要因と生態系変化の関連を因果関係の面から検討するとともに疫学的にも考察を加えて記述した.これらの検討結果について読者の方々のご意見やご批判をお願いしたい.
 有明海漁業は1980年代に入って漁獲量の減少が始まり,まだ回復傾向が見えない.有明海漁業が世の中の注目を浴びたのは2000年12月からのノリの大不作であった.福岡県,佐賀県および熊本県の平年ノリ生産金額が約400億円だったが,2000年度は約260億円と大きく落ち込んだことが契機であった.瀬戸内海の1999年漁獲量は1986年の最大漁獲量の約55%であるが,有明海では1999年の漁獲量は1979年の最大漁獲量の約20%に過ぎない.明らかに有明海では何か異変が起きている.
 ノリ大不作を受けて,2001年1月に農水省内に有明海ノリ不作等対策関係調査検討委員会(通称ノリ第三者委員会)が設置され,以後2003年3月まで10回開催された.海洋学会では,海洋環境問題委員会で直ちにこの問題を検討して,2001年3月に調査の方向と方法について提言を出した(海洋環境問題委員会,2001).委員会では内部に有明海小委員会を設置して,以後この小委員会が中心となって,2002年11月にそれまでの調査結果も踏まえて6点にわたり調査すべき課題について提言した(海洋環境問題委員会,2002).さらに沿環連の第8回(2002年12月:諫早湾締めきりが有明海環境に及ぼす影響)および第10回(2003年12月:有明海生態系異変原因解明の到達点)シンポジウムを企画して,有明海生態系異変を諫早湾干拓事業やその他の開発行為と関連させて論議を進めた.沿岸海洋部会では2003年9月に「沿岸海洋学から見た有明海問題」シンポジウムを開催した(沿岸海洋研究,42巻,1号,2004).これ以外にも有明海に関する多くのシンポジウムが開催されてきた.2002年度以降には,多くの研究機関によって精力的に調査研究が実施され,数多くの論文や学会発表がされてきた.
 ノリ第三者委員会は,諫早干拓事業の影響解明の手法として開門調査を提言したが,その成果を評価する前に解散した.有明海の調査および対策は,2003年2月に環境省などが設置した有明海・八代海総合調査評価委員会で現在論議されている.2004年5月に農水大臣は開門調査の見送りを発表したが,開門調査を強く求めていた漁業者の納得は得られていない.
 今まで有明海に関して出版されてきたものとして,(1)有明海の生物たち(佐藤正典編,2000),(2)有明海異変(古川・米本,2003),(3)有明海はなぜ荒廃したのか(江刺,2003)などがある.(1)は有明海の生物について詳しく取り上げている,(2)は諫早干拓とともに有明海をめぐる農業,林業その他を取り上げていて,有明海異変を全般的視野から捉えているが,科学的データが十分でない,(3)は貝類などの漁獲が減少したのは,ノリ養殖で使用している酸処理剤に含まれる有機酸が赤潮を誘発して,その結果底質が悪化したためであるという論理を展開しているが,十分納得できる内容とは言えない.
 このような経過を踏まえて,有明海小委員会は環境問題委員会の提言,ノリ第三者委員会を中心に集められた農水省・国土交通省・環境省などの資料や2002年度以降に発表された多数の調査研究成果に基づいて,有明海の漁業など生態系が悪化した原因解明を行い,それに基づく再生方向を示すことが必要であると考えて,内部に編集委員会を設置した.本書は,まず物理,化学,生物および漁業の視点から有明海の特徴を記述した(1章).つぎに,近年の開発行為を述べて(2章),有明海環境変化とその要因(3章),さらに生態系異変と環境変化との関連を検討した(4章).有明海生態系の変化を引き起こした原因について総括し(5章),最後に得られた解析結果を踏まえて,有明海再生方向を記述した(6章).4章までは各著者が記述し,5章と6章は編集委員の責任でまとめた.各章のはじめに要旨をつけたので,それを見て関心を持たれたところからお読みいただければ幸いである.本書が宝の海と呼ばれた有明海の生態系を再生して後世に残したいと考える漁民,住民,自治体,研究者などの取組みに貢献できることを期待する.
佐々木克之・松川康夫・堤 裕昭
 
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