|はじめに|

 増大を続ける世界の人口と生産力,それに対する有限な陸上空間を考える時,人類は沿岸海域へその活動領域を拡大せざるをえない.しかし沿岸海域の物質輸送の構造に無理解な諸々の開発行為が人類にとっての沿岸海域の価値そのものを消失させかねないことは,1960年代高度成長期の日本の沿岸海域の汚染のすさまじさを思い起こせば容易に理解されるであろう.沿岸海域の清澄さと豊富な生態系を保全しつつ諸々の開発行為を行おうとすれば,沿岸海域における有機態,無機態を含めた物質輸送過程を定量的に明らかにしておくことが必要不可欠となる.
 しかるに沿岸海域で生じている諸現象は時間的・空間的に非常に複雑であり,従来のように海洋物理学・化学・生物学者が個別の研究を行っていたのでは,沿岸海域の物質輸送過程を定量的に明らかにすることはできない.
 沿岸海域を時間的・空間的に眺めた時,最も複雑な現象は潮境,いわゆるフロント域で観察され,河口フロント,熱塩フロントなどの沿岸フロント域はその象徴的な場として人々の注目を集めている.フロント域を経て諸物質の濃度,生物密度は不連続的に変化し,その表層には収束流による物質集積によって潮目が生じ,好漁場となっていることはよく知られているが,このような沿岸フロント域で実際にどのような物理・化学・生物現象が起こっているのかはほとんど明らかにされていない.それは沿岸フロントの生成維持過程が明らかでなかったために,フロントの出来る場所と時期が予測できず,共同の観測計画を立案することが不可能であったためである.
 近年の沿岸海洋物理学は沿岸フロントの生成維持機構を明らかにし,フロントの存在場所と存在時期を予測できるまでに進歩したが,この現象を体系的に理解するためには,学際的なアプローチ,すなわち性格の異なる専門的知識や方法を終結することが必要な段階にいたってきた.そこで海洋物理学・化学・生物学者の集合体である本研究グループは我々研究者の眼をこの沿岸フロント域に集中し,共同観測,解析,討論を行うことで,そこで生じている複雑な諸現象を定量的に明らかにし,従来個別分野の単純な現象の解明にしばられていた我々の感性を“複雑な現象を複雑なまま理解できる感性”へと変革し,個別科学の枠を越えた真の“海洋学”の手法をうちたてることを試みようと考えた.  幸い,1986年度文部省科学研究費補助金による環境科学特別研究(1)において研究費を受領し,瀬戸内海の潮汐フロント,東京湾口の熱塩フロントの共同観測,研究討論を行い,フロント近傍の物質分散過程,生物過程をある程度定量的に明らかにすることができた.ただこの研究は単年度研究であったために,最終的な研究成果を得るにはいたらなかった.そのような状況の中で1987年度に文部省の環境科学特別研究が廃止されて以来,本研究グループのような学際的研究グループが研究費を申請できる場は文部省科学研究費の枠の中ではなくなってしまった.  そこで1988年度に民間の日本生命財団による「人間活動と環境保全の調和に関する研究−自然と人間の共生への新しい道を求めて−」という研究公募に研究助成を申請し,幸いにして研究助成金を受領することができた.こうした経緯により再度,瀬戸内海の潮汐フロント,東京湾口の熱塩フロントの共同観測および研究討論が可能となり,ここにその研究成果を取りまとめる機会を得た.
 そして今回,日本生命財団の研究成果発表助成金の援助を受けて,我々の研究成果を公表できる機会を得るにいたった.
 本書はこのような経過を経て行った沿岸フロント域に物理・科学・生物過程に関する現在までの研究成果を取りまとめたものである.読者諸賢のご判断を賜れば幸いである. (以下省略)

柳哲雄

 
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