|はじめに|

 「干しナマコ」はかつて煎海鼠(いりこ)とも呼ばれ,干アワビ,干貝柱とともに俵物三品として日本にとって最も大切な水産資源のひとつであった.俵物とは,清国との貿易における日本からの重要な輸出品目のひとつであり江戸期において特に活発に取り扱われたという.その後,1 世紀以上を経た1990 年代に至り中国を中心にしてナマコ需要は急速な広がりを見せるようになった.中国でナマコは海参と呼ばれ,刺(疣)の高さや数の多さに価値が認められる.その刺(疣)の格好のよさが際立つ日本産乾燥ナマコは,古くから最高級品として珍重され,現代においても世界最高の品質を誇る大切な産品である.
 ナマコは主に北海道や陸奥湾,瀬戸内海で漁獲され,そのほか北陸や伊勢湾などが有名であるが,最近は東京湾や沖縄・八重山でも盛んに漁獲されるようになった.日本の沿岸漁業では1990 年代以降,魚価が低迷していることもあり,単価が著しく上昇するナマコに大きな注目と期待が集まったことは記憶に新しい.その一方,資源の先行きに対する不安とともに,ナマコ漁業に将来を委ねることにためらう漁業者も多かったようである.そのような期待と不安が交錯しながらすでに約10 年余が経過しようとしている.これを振り返れば,いわゆるナマコバブルや黒いダイヤなどの造語に伴う活況にはじまり,乾燥ナマコからボイル塩蔵へのシフトがあり,小型化や獲りすぎ,密漁という問題があり,そして今日ではIUCN(国際自然保護連合)レッド・リストへの掲載へと至っている.
 ナマコは文化的な価値と,経済的な価値という,精神的,物質的な価値を併せ持つ特別な水産物である.われわれ日本人は,海の恵みを利用しこれを糧として生き,心のあり方とともに生活様式の中にその価値を見出してきた.高く売れることは大切なことだが,世界最高の評価をもつ日本産ナマコのもつ文化的価値を守るという精神的な貢献,獲りやすく枯渇しやすい資源を将来的にも利用できるような,そういう努力も同じように大切に考えられなければならない.この約10 年間,ナマコをめぐるそれぞれの人々の思いの交錯は,このような多様な価値とその利用の仕方をどのように捉えるべきかという方向性を明確にもたないまま,ただ物質的な経済価値にのみ翻弄されてきたという反省はないだろうか.ならば,われわれに今できることは,文化に対する価値を心の中に置きながら,海の恵みを糧として生きる“ 人” にとってナマコはどのように利用され未来に繋がれていくべきかについての考えることかもしれない.本書は,ナマコに関わり糧を得る人々にとって価値ある資源を良く利用するためにはどのように管理していくべきかということを考えるために書かれたものである.ナマコの中に人々はどのように文化的価値を見出してきたか,また,人はどのように利用しているか,これを踏まえて,ナマコの資源はどのように管理・育成され将来に繋げていくべきかということを意識し,取りまとめた.いわば“ 人”がよく“ 利用” するためにはどう考えるべきかという趣旨のものである.
 本書において,第T部は社会編として1 章に「文化・歴史」,2 章に「流通の現況」を配置した.これは,ナマコの価値の位置づけの高さ,その利用の歴史という人との関わりに注目するためであり,特に1 章では,歴史的な食文化としての価値,そしてその文化圏の形成と広がりについて,また,種の分布という視点から中華を核とした広域的なネットワークの広がりをナマコの道として文化史的に丁寧に説明するものである.その上で,近年のナマコの食文化の変化と消費,食べられ方の多様性をファースト・フード化というキーワードを用いて慎重に説明しようする.
 2 章では,近年の需要の高まりを支えてきた新たなナマコ利用と流通の実情について整理している.ここでは,伝統的な乾燥ナマコからボイル塩蔵ナマコ流通へと変化した理由,そしてこれが日本の浜値にどう影響しているかについて説明する.
 第U部「資源編」では,このような人間の利用を踏まえて,ナマコ資源はどのように管理・育成努力が行われていくべきかについての技術的知見を基にして言及される.3 章では資源管理方策や資源添加方策の基礎となるマナマコの生態について,分類上の問題から地理的分布や生息環境,摂餌行動や成長,ナマコ特有の行動である夏眠など,異種ナマコとの比較も交えて網羅的に解説している.
 4 章ではナマコの人工種苗生産について,佐賀県の生産現場における実際の種苗生産に関するノウハウと生産事例はもとより,全国各地の種苗生産施設の情報も交えて極めて詳細に解説している.
 5 章では西日本沿岸におけるナマコ資源増殖を,生息環境と色彩変異に焦点を当てて考察するとともに現状と課題について言及し,6 章では生態情報が乏しい北日本沿岸における資源増殖について最新の研究事例をもとに考察し,北日本版の資源管理手法を提案している.
 7 章では天然資源を効率よく利用する方法として,安価で簡単に設置可能な稚ナマコの沈着に優れた竹林魚礁について詳細に解説している.本手法は西日本沿岸におけるマナマコの生態に合致しており,極めて合理的な手法と注目されている.
 8 章では現場におけるナマコ資源量推定方法について,青森県陸奥湾で行われている「こんにゃく」を用いた疑似ナマコ法を紹介している.本手法は既存の手法と比較しても精度が高く,しかも漁期前に資源量推定が可能なことから効果的な資源管理に資するものと期待されている.
 第V部「産業編」では,加工方法と品質維持,現場への技術普及の手順,そして漁業管理の手法をそれぞれ配置し,具体的に漁業の現場でナマコ漁業管理を実践するための方法を紹介する.9 章では,日本産乾燥ナマコの品質を明らかにし,その上でそれぞれ異なる方法で製造されていることによって課題となる品質の不均一性についてこれを解消するための手がかりを考える.これは,日本産ナマコが世界最高品質としてブランドを維持していくために不可欠のものである.
 10 章では,文化的価値の維持,安心・安全のための透明性の高い流通に注目し,将来にわたって利用可能なナマコ漁業のあり方とはどのようなものか.漁業者自らが考え,実践した事例についてその経過を実体験に基づいて描写している.特に漁業者が協力してすすめていくことの大切さを説明している.
 11 章では,ナマコの漁業管理のためのより実践的な手法が紹介される.ここでは,ナマコ漁業管理を実施するための「ツール・ボックス」とその活用法が紹介される.ツール・ボックスとは,とられ得る漁業施策を資源の再生産段階から流通・消費に至る流れに沿って整理した実践的な漁業管理ツールである.本章では,どのようにナマコ漁業を管理すればよりよい成果を実現するのか,具体的にこのツールを用いて説明されている.
最後に終章として,我が国における近代ナマコ研究を振り返り,現在までのナマコ研究を俯瞰する.  以上,各章を通した総括として強調したいことは,ナマコという水産資源が人にとってよりよく利用されていくためには,どのようにその漁業が具体的に管理されていくべきか,ということである.日本人は古より魚を食べてきた民族である.その日本人が将来にわたってどのように適切にナマコを巡る生業(なりわい)を管理していくかという問いを現場で働く担当者に向けて発信したいというのが本書の目的である.特にナマコは,文化的価値に支えられながら脈々と伝えられてきた水産物のひとつであるとともに,近年は資源的にも危惧されている種である.決して目先の利益やビジネスにのみ翻弄されてはならず,人間の良心によってこれを科学的に理解し見通していく努力が求められる.
 しかし,ナマコに関するあらゆる領域の研究知見もまた不明な部分がなお多い.資源・生態的な研究領域においても年齢査定をはじめ研究の根幹にかかわるところは現在も精力的にその解明のための努力が行われている.文化・流通などからのアプローチもまた,昨今の社会的な変化に翻弄されながら,数年後に起こりうることさえ見通しにくいというのが実情である.このような不明瞭な見通しながらも,これを明瞭なものにしていくためには,現場担当者の方々の日々の継続的な努力に負うところが,今後,より大きくなるであろう.本書は,ナマコの漁業管理に携わる現場担当者がより適切にナマコ漁業を考えていくためのきっかけになることを願って取りまとめたものである.
 なお,本書は,「乾燥ナマコ輸出促進のための計画的生産技術の開発事業(新たな農林水産政策を推進する実用技術開発事業)(2007年度−2009年度)」において得られた知見とその成果を元にして,2010 年度以降の新たな事象を加えて再整理したものとして執筆した.
 2014 年7 月
                 廣田将仁
                 町口裕二

 
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