|はじめに|

 メチル水銀は,脳神経系に作用する有害化学物質である.メチル水銀による中毒症状はHunter-Russell症候群と呼ばれている.わが国における大規模な中毒事件として,1956年に発生が確認された水俣病および1964年に阿賀野川流域で発生した新潟水俣病が知られている.これらの事件では,工業廃水によるメチル水銀で汚染された魚介類を食べた住民に中枢神経系の障害が生じ,深刻な被害がもたらされた.1973年に厚生省(当時)は魚介類の水銀の暫定的規制値(総水銀0.4 ppm,メチル水銀0.3 ppm)を設定し,これ以上の濃度の水銀を含む魚介類の流通は禁止している.ただし,この暫定的規制値は,マグロ類,カジキ類,カツオ,深海性魚介類等(メヌケ類,キンメダイ,ギンダラ,ベニズワイガニ,エッチュウバイガイおよびサメ類)および河川産魚介類(湖沼産の魚介類を含まない)については適用が除外されている.その後,メチル水銀の排出は止まり,現在では,わが国での公害によるメチル水銀汚染は解消された.
   一方,海洋生態系の中で無機水銀から生成したメチル水銀は生物濃縮されるので,食物連鎖網の上位に位置する肉食性のマグロ類,カジキ類,キンメダイなどの高次捕食魚やハクジラ類の筋肉には,1 ppm程度のメチル水銀が含まれる例があり,リスク分析が行われている.2005年に食品安全委員会による食品健康影響評価が行われ,とくに水銀の悪影響を受けやすいハイリスクグループは胎児であると推定された.耐容量の評価結果に基づき厚生労働省によって「妊婦への魚介類の摂食と水銀に関する注意事項」が設定され,メチル水銀含量が0.5 ppm以上の魚肉・鯨肉に対して,妊婦が注意すべき魚介類の種類とその摂取量(筋肉)の目安が示されている.
 一方,海外では,魚介類の不摂食による高度不飽和脂肪酸(PUFA)の欠乏が,小児の知能の発達や心臓病死に関与することが明らかにされ,魚食の健康増進効果が注目されている.魚介類がPUFAだけでなく,セレン,ビタミン類,タウリンなどの重要な供給源であることが認識されたことにより,魚介類由来のメチル水銀の規制の見直しが,食品の国際基準を定めるコーデックス委員会で検討されている.魚介類を食べること,または食べないことの健康リスクとベネフィットをより包括的に考慮する必要性が研究者や専門家の間で議論されている.
 日本人が摂取するメチル水銀の大部分が魚介類に由来することから,食の安全確保と水産業の振興のため,メチル水銀摂取の健康リスクを正確に把握する必要がある.とくに,近年,魚食による低レベルのメチル水銀の長期にわたる曝露影響を解析評価する手法が開発されている.また,メチル水銀の蓄積や毒性発現に対して拮抗的に作用する食品成分として,PUFAおよびセレン化合物が見出され,その作用機序の解析が進んでいる.
 こうした背景の下,本書は,魚食に由来するメチル水銀の生物影響研究の現状に焦点をあて,消費者や関係者への情報提供およびリスク管理に貢献することを目的として企画したものである.
 メチル水銀は魚食由来の有害化学物質であり,とくに胎児に対するリスクが最も大きいことから,消費者にとって,非常に関心の高い課題である.このことを受け,魚食由来の微量なメチル水銀による神経分化・発達に対する毒性を把握する必要があることから,生化学・分子生物学の進展や動物実験,疫学調査によって,メチル水銀の生体影響について総合的な解明が試みられた.その結果,毒性発現の分子機構およびPUFAやセレン化合物による毒性軽減効果について,飛躍的な研究の進展とデータの蓄積が実現されつつある.本書は,具体的な研究事例を報告しつつ,メチル水銀の健康リスクと魚食の機能性成分についての最新知見を紹介する.
 最後に,メチル水銀やセレン,PUFAのような健康影響にかかわる重要な研究課題について,日本水産学会の内外で自由で活発な討議や研究発表が行われる研究環境が醸成されることによって,専門的な知識が一般に普及し,風評被害の発生が防止され,食品安全研究がさらに発展することを願っている.

  2014年2月
  山下倫明

 
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