|はじめに|

 私の知人に、「……といわれているが、それはおかしいやろ」が口ぐせの人がいる。きっと、問題提起型の思考回路が発達しているにちがいない。先日も、飲み屋でカレイの煮付けをつつきながら、「脊椎動物のくせに左右が対称じゃないなんて、カレイは相当におかしいやろ、ほかにそんな動物いるの?」と聞かれた。確かに、ヒラメ・カレイのたぐいは、裏側が真っ白で眼が体の片側にしかない。そんなおかしな形態で(図0-1)、いったいどんな生活をしているのだろうか。そして、どうしてそんな形態(体の形)に進化する道を選んだのだろう。
 一方、カレイと聞いて姿を思いうかべられない人は、日本人にはほとんどいないだろう。NHK 朝の連続テレビドラマ「梅ちゃん先生」の食卓にもカレイの煮付けやから揚げがよくのっていた。私が子どものころも、カレイは夕食の定番だった。縄文時代の遺跡からもヒラメとカレイの骨が出土し、現代の大学の食堂でもカレイは人気メニューである。ヒラメ・カレイ類は日本人の大好物であり重要な食料資源だが、生物学的にきわめておかしな脊椎動物だなんて思いながらカレイの身をむしっている人は、大学の食堂にもほとんどいないだろう。
 ヒラメ・カレイが体を海底に横たえている姿を思いうかべると、魚としてだけでなく、生物としてきわめて変わった形態をもっていることがよくわかる。同じく底魚と呼ばれるコチやアンコウも平べったい体を海底に付けて生活している。しかしこれらの魚は縦につぶれているだけで、上から見ると背中の中心に背びれが通り、中心線をはさんで顔の両側に左右それぞれの眼がある。胸びれも左右に一対ずつ見えている。すなわち形は左右対称だ(図0-2 左)。
 次にヒラメの形態を見てみよう(図0-2 右)。上から見たときに、体の上下に縁取りするように長いひれが並んでいる。上が背びれ、下が尻びれだ。上が背びれ、下が尻びれということは、この図ではヒラメの体の左側だけを見ていることになる。眼は左眼が体の中央に、右眼は背びれの付け根あたりに付いている。すなわち体の左側に両眼がアンバランスに付いているのだ。カレイ類では眼の位置が逆になり、体の右側に眼をもつものがほとんどである。すなわち、ヒラメ・カレイ類は両方の眼が体の片側にあるので左右対称ではなく、眼のあるサイドを有眼側、眼のないサイドを無眼側と呼ぶ。このように動物としてきわめて異質な体型をしているので、ヒラメ・カレイ類は異体類とも称される。ヒラメもカレイも分類学的にはカレイ目に属するので、ここでは特別な場合を除いて総称としてカレイ(類)と呼ぶことにする。英語ではヒラメ・カレイを総称して形のままに平たい魚、flatfish という。
 カレイは生まれたときから両眼が体の片方にあるわけではない。図0-3 はヒラメの例だが、卵からふ化したばかりの眼は他の魚と同様に体の左右に対称に付いている。この時期には、生活空間も海底ではなく、水中をプランクトン(浮遊生物)として漂っており、この発育段階を仔魚と呼ぶ。浮遊期のある時期にどちらかの眼が移動をはじめ、体の上を通って反対側へと移動し、それが完了すると海底での生活を開始する。この写真では、右眼が体の左側に移動している。おおよそ親と同じヒラメの形になって(たとえばひれがすべ て完成)海底で生活するようになった発育段階を稚魚と呼ぶ。本書では仔魚と稚魚のちがいが重要なので、読者の皆さんには、このちがいを覚えておいてほしい。さらに成長して稚魚と成魚の間の発育段階を幼魚や若魚と呼ぶこともある。
 もしカレイが眼の移動なしに体の片側を海底にぺったりと付けて生活しようとすると、片眼は常に海底を見ることになりやっかいだ。コチやアンコウは両眼を左右対称に背中側に位置させて、おなかを海底に付けうつぶせで海底生活するので、カレイのように片方の眼だけを移動させ体全体を左右非対称に作り直すという複雑な進化は必要なかった。カレイの先祖は、あおむけでもうつぶせでもなく、なぜか横向き(横臥)の姿勢で海底生活することを選択したわけだ。そのころからずいぶんおかしな魚だったようだ。体の片側に両眼があるという、これほど明確に体の構造が左右非対称の脊椎動物は、カレイを除いて地球上に存在しない。生きものとして、また、形態、生態(生活のスタイル)、進化の観点から、カレイはきわめておかしな魚なのである(図0-4)。

 
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