|はじめに|

  わが国の沿岸海域において水産資源の多くは低位水準にあり,その回復・管理が最重要課題の一つとなっている.栽培漁業は種苗放流による魚介類の増殖手法の1 つであり,資源管理とともに沿岸重要資源の主要な回復策と位置づけられ全国で実施されている.現在までに,80 種を超える魚介類を対象として様々な技術が開発され,その多くで健全な人工種苗を大量に放流する技術を確立した.
 その結果,魚類では広域の重要種と位置づけられるマダイ,ヒラメにおいて毎年全国で2000 万尾前後の種苗放流が実施され,漁獲物に占める放流魚の割合が40%以上に達する事例も報告されている.また,ホシガレイ,マツカワなど,地域的な重要種は,漁獲量が極端に減少すると漁業資源としての価値が消滅する可能性があるため,速効性のある資源回復策として種苗放流が行われている.このような小さな集団では,漁獲物に占める放流魚の割合が50%を超え,資源自体が放流に支えられている場合も少なくない.
 以上のように,栽培漁業技術の進歩により放流魚の割合が高くなっていることで,生き残った人工種苗の一部が成熟して天然資源の再生産に関与することは容易に予想される.反面これらの事象は,栽培漁業による人工種苗の大量かつ長期的な放流が,既存集団の遺伝的多様性に与えるリスクの評価とリスクに対する防除技術の確立を緊急の課題として提示している.このような状況に対し,海産魚類よりも歴史の長い淡水魚,とりわけ母川への回帰性をもち,放流効果が出やすい,シロザケやアユでは,以前より人工種苗の放流や産地の異なる種苗の移植による問題が指摘され,科学的なデータをもとに検討が進められている.とくにアユは水産庁など関係者によって「アユの遺伝的多様性保全指針作成調査」が実施され,「アユ種苗放流指針」が2005 年に提示されている.しかし,多様な魚種の種苗放流が全国各地で行われている海産魚類では,このような取り組みはほとんど見当たらない.
 一方,甲殻類では数十年にわたってクルマエビが1〜3 億尾,ガザミが2000〜4000 万尾程度,各地で放流されてきた.しかし,甲殻類は脱皮によって成長するため魚類のように明確に確認可能で継続性のある標識の装着法が確立されていない.そのため,近年まで放流の効果把握は困難で,効率的な事業実施はもとより,至適放流条件(時期,場所,サイズなど)の把握すら困難な状況であった.しかし,近年,マイクロサテライトDNAやミトコンドリアDNAを遺伝マーカーとして応用し,これらの情報を用いた追跡が可能となってきている.この方法は,親の遺伝的特徴をもとに対象とする漁獲物=サンプルが子供か否かを推定するため,物理的な標識作業が不要で大量かつ,容易に識別できる利 点がある.標識装着の困難さから栽培漁業技術の進展が大きく遅れてきた甲殻類にとって,このような遺伝標識による放流の実態把握は大きなターニングポイントとなる可能性を秘めている.
 本書は,全8 章から構成される.まず,1〜3 章では,ほぼ絶滅状態だったマツカワの栽培漁業をモデルに,種苗放流による資源の回復と遺伝的多様性の確保について実証的な事例を示した.加えて,4 章では,遺伝標識で最も効果が期待される甲殻類,なかでもクルマエビにおける技術開発の概要を今後の方向性を含め,提示した.最後に,5〜8 章では,2007〜2011 年に著者らが実施した農林水産省農林水産技術会議の「新たな農林水産政策を推進する実用技術開発事業」の成果をもとに,多様な栽培漁業の遺伝的リスク管理と低減技術に対して,広域種(広域分布で資源規模の大な魚種)のモデルにマダイを,地域種(限られた地域のみに分布する比較的資源規模の小さな魚種)のモデルにホ シガレイを定め,検討した結果を説明した.上記の技術開発およびモニタリングには必ず,取り上げた栽培漁業の事例を総括し,どのようなことを行ってきたかを明示してもらった.なぜなら,この取りまとめに当たり,栽培漁業のモニタリングがすべてのベースであり,それがないと何事も検討できないことがあらためて明らかとなったからである.
 本書が,近年技術の著しい進展が認められる「分子生物学的手法を用いた増殖事業の実態把握とリスク管理」について総括するとともに,抱えている問題点を含め,今後の方向性を示すことができれば幸いである.

2013年6月
有瀧真人

 
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