|はじめに|

 “アワビ”。漢字で書くと“鮑”。魚へんに包むと書く。
 アワビなんて食べたことない、という人はいるかもしれないが、名前も聞いたことがないという日本人はまずいないだろう。
 アワビはマツタケと並ぶ高級食材として知られる、おそらく世界でも最も値段の高い食材の1つである。ステーキ、踊り焼き、刺身など、テレビのグルメ番組ではよく見るが、いずれも庶民にはなかなか手が届かない目玉が飛び出るような値段の高級料理ばかりだ。
   アワビはしばしば“磯の王者”と呼ばれるが、値段的には確かに“王者”と呼ばれるにふさわしい。もっとも“磯の王者”という呼び名は、アワビと同じ高級食材として知られるイセエビや、磯釣りの対象として人気のあるイシダイやクロダイにも使われる。
 “百獣の王”と言えばライオンだが、ライオンは猛獣であり、おそらく強いから“王”と呼ばれるのであろう。アワビは海藻を食べるおとなしい動物なので、そういう意味で“王者”にはほど遠い。“王者”なんていう呼び名は人間の都合で勝手に付けているだけなので、何が本当の磯の王者かを考えても意味がないことではあるけれど、アワビが“磯の王者”と呼ばれるにふさわしいかどうかは、この本を読み終わったときに皆さんに考えてもらいたい。
 いずれにしろアワビは、サザエやアサリ、シジミ、ハマグリなどとともに日本人にはもっともよく知られた貝類であろう。
 しかし、皆さんのアワビに対する知識の大半は、“貝”という食べ物としてのもの。海に住む生き物、“貝類”としてのアワビやサザエ、アサリについて、どれほどのことが知られているだろうか。アサリやシジミは二枚貝で、サザエは巻貝。せいぜいそのぐらいではなかろうか。ではアワビはいったいどっちなのか? アワビの赤ちゃんはどこで生まれ、どんな形をしているのか? 何を食べているのか? 私たちが目にする10センチメートルほどの大きさになるのに何年くらいかかるのか? など、ふつうの人は考えもしないにちがいない。
 アワビは“磯”と呼ばれる浅い海の岩場に住んでいる。磯の環境に適した体の構造や生き方を身に付けた、実は意外に不思議で魅力的な生き物である。私たち人間とのつき合いも深くて長い。彼らにとっては迷惑なことばかりではあるが……。
 私(著者)は、食べ物としてではない生き物としてのアワビたちの姿、生き方を観察、研究してきた。人間が長年にわたって獲り過ぎたために減ってしまったアワビを増やすため、アワビの生態(海底での彼らの暮らしや環境との関係のこと)を研究している。その過程で彼らの巧みな生き方を知り、そのたびに多くの驚きや感動を体験してきた。この本では、ごく最近新しくわかってきたことを含め、海の生き物としてのアワビの姿、生態を紹介する。また、私たち人間がアワビをどのように利用してきたかについても考える。読者の皆さんにもアワビたちの不思議や魅力に触れてもらうと同時に、私たち人間とアワビたちがこれからどう付き合っていけばいいのか、考えてもらいたい。

 
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