|はじめに|

 2010年3月27日に日本大学湘南キャンパスで開催されたシンポジウム「魚介類生産の場としての浅海域の生態系サービス」の会場は,朝9時の開会から夕方の閉会まで終始立ち見の出る大盛況となった.「生態系サービス」という言葉に対して水産学会員の多くがなじみ深いわけではないことも想定されたため,正直なところシンポジウムを企画した我々は,その成否に当日まで若干の不安を抱えていた.しかしながら,会場に広がる熱気を通して,本企画が的外れや時期尚早ではなかったことをすぐにそして強く確信した.多くの会員や関係者が生態系サービスに興味をもっておられたことを,白熱した当日の議論からもうかがい知ることができた.参加いただいた皆様にこの場を借りて改めてお礼申し上げたい.本書の内容は上記シンポジウムでの講演内容がもとになっている.
 生態系サービスについて深く知ろうとするのが,本書を通じてほぼ初めての経験となる方もいらっしゃるであろう.また,「生態系」や「生物多様性」を主な題材として扱った本書は,水産学会が監修する「水産学シリーズ」のなかで若干異質に感じられるかもしれない.具体的背景をあげるとすれば,「水産」と「生物多様性」をあつかう学問分野が異なり,これらの分野の研究者の多くは異なる学会に属し研究成果の公表も別々に行ってきた.実際のところ,水産の分野に身をおいて学生時代を過ごした編者らが受けてきた講義では,単一の種(例:マイワシ)の資源がなぜ減ったり増えたりするのか,あるいは資源をいかにして増し多く獲るかといった内容を教わる機会が多かったように記憶している.1960年代までは食用魚介類の自給率が100%を越え,重要なタンパク源として漁獲されてきた水産物のほとんどをごく少数の種が構成していた.これら数種の資源変動が国全体の漁獲量さらには水産業従事者の暮らしや水産経済までも大きく左右してきたため,多く獲れる種に注目が集まってきたのは当然の結果であり,そこに生物多様性という概念が結びつきにくかった,というのがわかりやすい歴史的背景かもしれない.しかし今,水産と生物多様性の関連が大きく注目され,不可欠なものとなっている.これらの結びつきが,未来の学問として飛躍を遂げるに違いないとの強い思いが,著者らを本シンポジウム開催と本書出版に駆りたてた.
 本シンポジウムの開催から半年後の2010年10月に名古屋で生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が開催された.国際生物多様性年でもある2010年に開かれた第10回という節目の大会の議長国として,日本はリーダーシップを示す立場にあり,政府,地方公共団体,大学,NPOなどが活発にイベントを行った.マスコミ報道の影響もあり,市民から政府に至るさまざまな段階で生物多様性に関する認知は過去に例がないほど広がった.エコカーやエコバッグなどの普及も手伝って,日常生活の中でさえ老若男女を問わず環境問題を意識する機会が格段に増えている.COP10でのセッションやサイド・イベントでは,生態系の中でも高い生産力と生物多様性をほこる浅海域の保全と,地球環境変動の影響を長期的にモニタリングすることの緊急性・重要性が繰り返し強調された.これまで生物多様性に関する概念が水産資源や生息環境の保全に盛り込まれることは少なかったが,近年は海洋保護区(marine protected area:MPA)の設定などの取り組みが国や地域によっては盛んに行われている.今後は,国や地域の枠を越えた協同体制,包括的かつ長期的視座からの解析およびモニタリング体制の構築を急がねばならない.しかしながら,我が国においては浅海域の生物生産メカニズムやその定量評価に関する包括的な先行研究例,解説書などが地域レベルでもほとんどない状況にある.
 浅海域に目をむけると,そこには藻場,河口,干潟,サンゴ礁などの多様な環境が存在し,地球上の全海洋の中でもっとも多様な生物群集が生息している.外洋域に比べて沿岸域では,生物に対して陸域からの有機物の供給,酸性化,貧酸素化,地球温暖化などの短・長期的な人間活動のインパクトがより直接的かつ複雑に及ぶのが大きな特徴である.浅海域の生物生産メカニズムを理解し,高い生産性を持続的に利用する方策や体制を構築することは,人類が直面している地球環境・食料問題の解決にも直結するきわめて重要な課題である.そのためには,浅海域生態系を構成する多様な種や環境の相互関係を解きほぐす包括的な取り組みが不可欠なのは言うまでもない 古くから人類は浅海域で生産された魚介類=「自然の恵み」を享受してきた.人類による過度の利用(乱獲),汚染,生息場の面積減少・消滅などが進んだ水域では,個体数の大幅な減少や絶滅の危機に追い込まれている種が少なくない.とりわけ,産卵場や生活史初期の生息場として浅海域を利用する種は,これら人間活動の影響を直接的に受けやすい.生態系の劣化や消失,種への致命的ダメージなどが生じた場合には,それらの再生に極めて長い時間を要する.浅海域生態系の重要性,保全の意識が過去に比べて高まった今日では,生態系への影響を軽減するミチゲーションや,過去に消失した生態系を人工的に復活させる人工藻場・干潟造成(里海創生事業と呼ばれる類のものを含む),資源増大を目指した魚介類の人工種苗の放流などの努力も各地で実施されている.しかしながら,これらの多くのケースでは単一種の生産力の向上に注目が集まるとともに,その効果の評価対象が短期的である場合がほとんどである.人工的な資源培養や環境回復・創生事業が期待に反して不成功に終わるケースが後を絶たないことは,生態系を構成する種や個体群,群集,生息環境が複雑に相互連関していることに対する我々の理解不足に起因するのかもしれない.
 生態系に備わった機能のうち人類が享受できる価値の部分を示す生態系サービスは,各生態系の重要性を定量的に評価するために必須の尺度である.地球上に存在する様々な生態系のサービスを経済価値に換算したCostanza et al.によれば,河口域や藻場などの浅海域がうみだす生態系サービス(約2万ドル/ha/年)は熱帯雨林(約2千ドル/ha/年)や陸水域(約8千ドル/ha/年)に比べてはるかに高く,全生態系のなかで最大と見積もられている.生態系サービスはあくまでも人類から見た利己的価値であるため,価値が高いことは社会的に意味がある.しかしその一方で,生態系サービスが低いからといって重要でないことを示しているわけではなく,人類の利己的価値で判断できない価値も存在する.本来,生態系・生物多様性とは価値(人類から見た利己的価値)に関係なく守るべきものであり,そのうち,社会的に評価が可能なものを生態系サービスとして扱っているわけである.したがって,上記の経済価値はあくまでも1つの目安に過ぎない点に注意する必要があるが,生態系の役割と重要さをわかりやすく教えてくれるものである.現存する生態系を失った際に最低限どれだけの経済的損失が生じるかを知るための指標ともなりえるので,無計画な沿岸開発や埋め立てに対し抑止的に作用する根拠となる場合もありうる. 生態系サービスは調整,供給,文化およびこれらを支える基盤サービスの4つに区分される(1章を参照).本書では,これらのうち供給サービスに相当する魚介類の生産過程と定量評価を主な対象として扱う.第I部では,読者の理解を深めるために生態系サービスの詳述とあわせて,高い生物生産力と生物多様性とのかかわり(1章),水産資源の主要な分類群である魚類(2章)と貝類・甲殻類(3章)の生産研究の歴史と手法についてレビューする.第II部では浅海域を構成する代表的な生態系のうち,アマモ場(4章),ガラモ場(5章),河口・干潟域(6章),サンゴ礁(7章)の環境特性と生物生産機構を対比させる.第III部では長期的視点からの解析(8章),経済的評価(9章),地球環境変動および人間活動との関連(10章)を解説する.
 本書は,多様な分類群と生息環境を網羅したうえ人文科学分野とも関連づけることにより,浅海域の生態系サービスに関する理解を可能な限り包括的視野から深めることを目的としている.おもに大学学部生や院生,専門家を対象とする内容構成となっているが,関連分野に興味のある高校生でも理解できるよう平易な文面を心がけた. 絶海の孤島やジャングルとは異なり,誰もが気軽に足を踏み入れることができる身近な生態系でありながらも生物多様性の宝庫であり,多くの恵みを我々に提供する浅海域は,まさに宝の海である.研究従事者だけでなく,行政・政策担当者から市民に至るまで,様々な立場の人々が生態系サービスに対する関心・理解を深め,生態系保全と持続的利用を実践しうる社会システムが今後できあがってゆくために,本書が少しでも貢献できれば幸いである.
2011年2月
                    山下 洋
                    堀 正和
                    小路 淳

 
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