|はじめに|

「里山」と違い,「里海」という言葉はまだなじみが薄いが,研究者,行政,NPO関係者の中で盛んに使われるようになってきた.海にいちばん多く携わる漁業者の間にさえ,まだ馴染んだ言葉とは言えない.2006年の世界閉鎖性海域環境保全会議(EMECS7)で”Sato-Umi”が使われ,2007年6月の「21世紀環境立国戦略」,同年11月の「第三次生物多様性国家戦略」,さらには2008年3月の「海洋基本計画」などなど,「里海」は急速に市民権を得つつある.「人手を入れることで生産性と多様性を高める」という概念は,生態学的には有り得るが,一般人の感覚として染みついているのはひょっとして日本人くらいかもしれない.どうやら「里海」は「日本発,瀬戸内生まれ」,そして現在,世界に発信されつつある言葉と言える.
しかし,その中身について十分に煮詰まっていないようにも思える.人が関わる身近な海「里海」−あるいは「里浜」と言った方がよいかもしれない−をいったいどのようにしたいか,という思いは人それぞれである.海岸地形や海底地形,後背地の土地利用形態とそれらが沿岸に及ぼす影響,そこに住んでいる人々の思いや文化・歴史的背景など,それらはすべてローカルに違うので,土地土地で異なる「里海」があってよい.ただし,海をそれぞれが好き勝手に使うことによる荒廃だけは避けねばならないし,今以上に親しめる海,健全で生物も多様な海であって欲しい.そう願うならば,やはりそこには多様な主体による十分な議論と,それに基づくルール作りが必要である.
そもそも海は誰のものか,という問題を巡り,過去には漁業者とその他の利用者との間に多くの軋轢があった.わが国には,沿岸漁業の長い歴史の中から生まれた漁業権という特権が漁業者に与えられている.漁業権は水産業という生業において魚を取る権利であっても,一般市民を浜に入れない,という排他性までは含んでいない.
漁業が生業として十分に成り立っていた時代は,漁業者の主体的管理によって沿岸の海も健全であった.もちろん今でもそういう海はあるが,一方で魚が捕れなくなり,耕作放棄地ならぬ漁獲放棄地化している海が増えつつある.魚が獲れないから漁業者が減る.漁業者人口の減少とともに高齢化も急速に進み,漁場の管理もできなくなってきている.
わが国の水産物自給率は1977年までは100%を超えていたが,その後急激に低下して現在60%程度しかない.地元で獲れる魚がおいしいことはわかっているが,漁獲量が少ないので価格が高い.それよりも多少味が落ちてもいいから,価格の安い輸入魚を好む傾向は続いている.水産物に限らず,モノの価格は市場原理が働くので統制は簡単ではない.しかし,なんでもかんでも安い方へ流れる志向は,こと食については,その安全・安心の観点から再考する必要があるのではないだろうか.安全・安心でおいしい魚介類を日本人全員が堪能するには,健全な沿岸の海を取り戻すしかなく,これは国としての喫緊の課題である.そういう意味で,漁場の再生あるいは管理には,国としても何らかのインセンティブを引き出す対策が必要である.現在,水産庁は「環境・生態系保全活動支援調査・実証事業」により,藻場や干潟などの再生や磯焼け対策などを行っている.環境省も「里海創生支援事業」として市民活動の盛んな海の再生に力を入れている.国土交通省も「全国海の再生プロジェクト」として,東京湾,大阪湾,伊勢湾,広島湾の4ヶ所の自然再生を進めている.
上記の国の事業はいずれも,住民参加型あるいは漁業者参加型であり,多様な主体から成る自然再生プロジェクトであり,従来のやりっぱなしの公共事業とはかなり趣が異なる.また,このように国のプロジェクトに乗らなくても,何とか地元の海をよくしようと,手弁当ででも汗をかいてやっているボランティアは確実に増えてきている.そういう意味で,本書の主題である「里海」という言葉に裏打ちされた諸々の活動は,漁業者だけによる海域管理ではなく,みんなで沿岸の海をよくしてゆこうという方向性に拍車をかけるものである.沿岸の海の環境を保全しつつ,水産資源を持続的に利用できる海を望むのは,決して漁業者だけではない.何もせず放っておくのが最良と考える自然観ではなく,人の手を加えながら,環境保全と資源の活用を持続してゆこうという,日本の本来的な伝統的アプローチの仕方が「里海」創生という考え方である.本書の発刊が,さらに沿岸の海の再生の環が拡がることにつながれば本望である.
2010年9月

                          山本民次

 
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