|はじめに|

 日曜日に近所のスーパーの魚売り場をのぞいてみると, 4,5メートルはあろうかという冷蔵ショーケースの一つが,すべて刺身マグロで占められていた.そこにはきれいにパックされたぶつ切りや柵のマグロがずらりと並び,鮮やかな赤とピンクのグラデーションがそのショーケースを他よりもずっと華やかなものにしている.表示を見るとマルタ産生本マグロ中トロ,インド洋産メバチマグロ赤身,オーストラリア産養殖ミナミマグロ中トロ,韓国産キハダマグロ切り落とし,などなど.実にバラエティに富み世界のマグロ地図が描けそうなほどである.このようにマグロ売り場が派手になったのはいつ頃からであろうか.これらの商品はすべて数種のマグロ類の普通筋と呼ばれる筋肉である.いずれにしても,これらの刺身はマグロが漁獲されてから数日は経過しており,あるいはカチカチに冷凍されて数ヵ月を経ているにもかかわらず,褐変もせず透明感のある鮮赤色を保っている.鮮度保持技術の進歩を感じるには十分である.そして,町のスーパーにもこれだけのマグロが世界中から集まってくることには驚嘆の念を禁じ得ない.
 ところで,これだけの商品の元になる巨大なマグロを1本丸ごと目にする機会はそう多くないであろう.とにかくその大きさには目を見張るものがある.あれが時速100キロで海を泳いでいる様を想像するだけでもわくわくする.筆者がはじめて泳いでいるマグロを目にしたのは1984年,ハワイのオワフ島にある国立海洋大気圏局(NOAA)に属する国立海洋漁業局(NMFS)のケワロ研究施設であった.生きたカツオ・マグロを飼育して実験できる施設は当時世界中でこの一ヵ所に限られていた.そこで6週間,生きたカツオ・マグロを実際に飼育し,実験に用い,そして食べた.とても興奮した記憶がある.何よりも魚体の色と形の美しさは図鑑で見ていたものとは大違いであった.以来,すっかりカツオ・マグロの魅力にとりつかれてしまったのである.
 筆者はカツオ・マグロの専門家というわけではない.海の動物,すなわち魚やエビ・カニ,貝類の生化学を専門にしている.この分野の研究を専門用語では比較生理生化学と呼んでいる.ありとあらゆる動植物が対象となる.生理学や生化学,最近では分子生物学など様々な手法により,他の生物と比較しながら対象となる動植物の生命現象や環境に対する適応現象を明らかにしようとする学問分野である.動植物とはいっても動物を扱う研究が多い.膨大な生物学の中の小さな1分野であるため,その内容は一般にはあまり知られていない.研究者が圧倒的に少ないのである.
 比較ということは単に他の生物と比べるというだけではなく,常に生物の進化が念頭にある.永い生物進化の結果として現存するその種が,他の種との関係においてどのように進化してきたのかは最も興味があるところである.比較生理生化学者が扱う動物は様々で,日頃見聞きする動物ではない珍しい動物の場合も多い.そのため,予想もできないようなおもしろい現象が明らかになることも多く,興味は尽きない.
 このような比較生理生化学の観点から見て,カツオ・マグロについても多くの興味ある疑問が浮かんでくる.カツオ・マグロは水の中をなぜ時速100キロものスピードで泳ぐことが可能なのであろうか.魚は変温動物であるはずなのに,他の魚と違ってなぜカツオ・マグロは体温を高く保てるのであろうか.それは何のためなのだろうか.ブリなどにはないマグロ類のどす黒い大きな血合筋と真っ赤な普通筋はどのように使い分けられているのであろうか.普通筋が真っ赤なのはなぜなのか.なぜあんなにからだが大きく,まん丸なお腹になるのであろうか,などなど.
 これまで,これらの疑問に答えるような本は比較生理生化学の専門書のみであり,それも日本語の本はほとんどなかった.まして一般向けの本などは外国でも刊行されたことはなかった.カツオ・マグロといえば種類や分類,分布や生態,漁業や流通,鮮度と加工,料理などに関する本だけであった.そこで,上記のカツオ・マグロの疑問に答えるために,これまで比較生理生化学的に理解されていることを一般向けに書いてみようと思い立ったのである.
本書はできるだけ平易に記述したつもりであるが,第三章などはやや難しいかも知れない.生化学というと,医学生にとって基礎医学で一番難しい分野ともいわれる.本書でも最低必要な化合物名や酵素反応がでてくるのは避けられない.難しいと感じられた部分は読み飛ばしていただいて結構である.驚異的な動物であるカツオ・マグロの姿を,全体として理解していただければ幸いである.

 
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