|はじめに|

 水産増養殖の現場では,漁場環境の悪化,高密度飼育,えさの品質低下等に起因する感染症の発生と,それに伴う深刻な被害が続いている.魚病の問題が表面化してから既に半世紀以上が過ぎたが,依然として病気の発生は増養殖業の発展を妨げる大きな阻害要因となっている.また,近年のコイヘルペスウイルス病やアユ冷水病等は,養殖場のみならず天然水域でも発生し,水産業だけでなく生態系の保全等の社会的な問題にもなっている.

 我が国の魚病対策は,これまでその大きな部分を抗菌性薬剤による細菌病の治療に頼ってきた.ところが近年では,耐性菌の増加,抗菌剤の魚への残留に対する消費者の懸念の高まり,および薬剤が無効なウイルス病の流行等により,魚病対策における抗菌剤の有用性は低下している.一方,ワクチンを中心とした予防対策には,これらの諸問題を解決する力があり,さらに,計画的な生産により養殖業の経営の安定化にも寄与できる.実際にブリ属魚類においては,ワクチンの普及により魚病の被害額は大きく減少している.治療対策から予防に主眼を置いた防疫対策への転換が,行政,業界両サイドから進められており,ここ数年,水産用ワクチン,特に海産魚用ワクチンの開発・実用化が活発に進められている.そして,2005年前後には,販売額ではワクチンが薬剤を追い抜くという状況が生まれている.

 このように,水産用ワクチンは追い風の下,急速に養殖現場に普及しつつあるが,それに伴い新たな問題も生じている.第1に,ワクチンの種類が圧倒的に不足している.近年の抗菌剤が幅広い細菌に有効であるのと異なり,1つのワクチンは原則として1つの病気にしか有効でない.我が国において現在実用化されているワクチンは,ビブリオ病,αおよびβ溶血性連鎖球菌症,類結節症およびマダイイリドウイルス病に対するワクチンの5種類のみであり,多大な被害が出ている他の多くの病気についてはワクチンが期待されているが,まだ実用化には至っていない.さらに,承認されているワクチンについても,魚種が限られている.前述の通り,近年の抗菌剤は幅広い細菌に有効であるが,ワクチンは病気ごとに開発する必要があり,開発には時間がかかる.第2に,ワクチンに対する使用者の理解が不足しているために,本来の効果が得られていない状況が生まれている.直接病原体に作用する抗菌剤と異なり,ワクチンは魚の免疫力を利用して間接的に病原体に作用する.そのため,ワクチンの効果を最大限に発揮させるためには,魚の免疫を理解して,普段から,そして投与時にも,魚の免疫能を高く保っておく必要がある.

 ワクチンの普及に伴うこれらの問題を解決するためには,ワクチンの開発やその適切な使用のベースとなる魚類免疫の基礎から,現場における適切なワクチンの使用や要望に至るまで,広範囲な知識が必要である.しかし,このような知識を総合的にかつ平易にまとめた本はない.そこで,現場やメーカーの研究者および行政の担当者を執筆陣に迎え,ワクチンの基礎から開発までの過程,さらに現場での使用に至る内容を一冊の本にまとめることを思い立った.具体的には,最近の学問的成果を盛り込みながら,魚類の免疫機構と共に,ワクチンの原理,投与法,市販ワクチンの概説,国内外のワクチンの開発動向,法令,販売・使用状況,並びにワクチン開発の経緯,問題点等を,なるべくわかりやすく解説した.この本を契機として,予防に主眼を置いた防疫対策がより一層進み,治療から予防への流れが不動のものとなることを祈っている.

(以下省略)
 2009年3月 中西照幸・乙竹 充

 
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