|はじめに|

 アサリは、縄文時代の貝塚から多量にその貝殻が出土されるように、古来より日本人にとって極めて重要な食料である。かつてわが国では、1980年代まで年間11〜16万トンのアサリが生産されていた。しかし、その後急速に生産量が減少し、近年では3〜4万トン前後と低迷している。そのため、各地でアサリ資源の増殖のための様々な努力が講じられているものの、未だ資源回復には至っていない。また、国内生産量の減少分を補うため、海外からの輸入量が増加しており、それに伴うサキグロタマツメタガイなどアサリに対する害敵生物の移入も大きな問題となっている。このようなアサリ資源の現状を克服するため、平成15年水産庁を中心に(独)水産総合研究センターと都道府県の水産試験場等の専門家をメンバーとする「アサリ資源全国協議会」が設立され、全国でアサリ資源の増殖に向けたさまざまな取り組みがなされている。

 アサリが激減してしまった原因の1つとして、埋立てや干拓などの海岸工事による生息や繁殖の場である干潟の減少や、水質汚濁などによる貧酸素水塊や赤潮の発生など、沿岸環境の悪化が考えられている。また、沿岸生態系の変化を引き起こしている要因として、ダム建設や河川改修などによる河川からの水や栄養塩、土砂、微量元素などの物質の供給量の変化も注目されている。このように、沿岸生態系の保全と沿岸資源の増殖を目指すためには、目的とする個々の生物生産の「場」のみに着目するのではなく、河川やその周辺の土地利用などを含めた流域圏全体の広域生態系の環境管理の視点が重要である。このような観点から、わが国の科学技術の推進方針を定めた科学技術基本計画の重点分野「環境分野」の分野別推進戦略の中に、人と自然環境の共生を目的として「水・物質循環と流域圏研究領域」および「生態系管理研究領域」が位置づけられ、森林・河川・沿岸をつなぐ流域圏生態系構造の科学的な解明と、その環境整備による生物多様性の保全と生物資源の持続的な利用のための技術開発に取り組むこととなった。しかし、個々の生態系を結ぶ水・物質のフローや生物学的な相互関係については、まだ解明しなくてはならない事項が多く残されている。

 わが国のアサリの主要産地である伊勢湾・三河湾では、アサリの資源の回復を目指した漁場造成、底質改善、浚渫窪地修復などのさまざまな事業が取り組まれており、さらに、河川からの土砂・栄養塩類流出などの機構解明と制御による生態系サービスの回復など自然共生型環境管理技術を目指した土木工学や環境学と連携した学際的な研究が始動している。本書では、伊勢湾・三河湾のアサリ資源とそれを取り巻く生態系を事例として、その現状と漁場環境改善のための取り組み、アサリの初期生活史の解明とそれに適応した漁場環境づくり、貧酸素水塊の問題とアサリへの影響、アサリ生息環境の改善を目指した流域圏環境管理手法の開発について、最新の研究成果を水産学、環境学、土木工学などの複合的な視点からとりまとめた。

 アサリは健全な沿岸環境を象徴する鍵種として、水産分野のみならず沿岸環境に関わる多くの研究者、行政担当者、漁業団体、市民団体などから大きく注目されている。本書が、アサリ資源回復や沿岸環境修復に携わる研究者や行政担当者への情報提供や新たな沿岸漁場環境管理方策の策定への一助となれば幸いである。

 平成21年3月
 生田 和正・日向野純也・桑原 久実・辻本 哲郎

 
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