|はじめに|
 陸地の近く,水深50 mにも満たない範囲の岩礁海底は,面積では海洋全体の0.1%にも及ばないが,光合成によって生産される物質量では10%以上にも及ぶ.沿岸岩礁域の高い生産力を担うのはコンブ目やヒバマタ目褐藻が形成する海中林である.ダーウィンは「ビーグル号航海記」(岩波文庫版)の中で「どんな地方にせよ,一つの森林が滅びた時,ここで浮藻が滅びたとする場合に比べるほど,動物の種類がはなはだしく死滅するであろうとは信ぜられない」と海中林の豊かさに驚嘆している.

 しかし現在,地球温暖化の進行にともない世界的規模で海中林が著しく衰退・消滅し,沿岸漁業にも大きな被害が及ぶ磯焼けとなる海域が急速に拡大している.オーストラリア・タスマニア島の海中林の面積は,現在では1950年台の5%にまで縮小しているという.日本列島沿岸でも,海中林は低緯度ほど消滅し,形成が認められる東北・北海道沿岸でも低潮線付近まで縮小している.温帯〜亜寒帯にかけて,カナダでは19世紀から知られていたウニの食害が磯焼けの進行によってさらに甚大な被害をもたらし,加えてアイゴ・イスズミ・ブダイなど熱帯〜亜熱帯性の植食魚類の食害も西日本沿岸で顕在化し,海中林を破壊している.一方,海域汚染や淡水と土砂の大量流入など人間活動による海中林の破壊も無視できない.磯焼けは,人類の地球環境破壊に対する警鐘であるとともに,水産業への重大な影響が懸念される緊急事態である.

 これまで,磯焼け域に大量に生息するウニを駆除して,また囲い網でウニや魚類の侵入を防いで海中林の回復が図られてきた.しかし,ウニを駆除しても海中林が回復しない事例が多くの海域で認められるようになり,植食魚類の食害に対する対策はほとんど立てられていない.また,陸域からの人間活動による破壊的な影響は原因の特定が難しく,まったく定量化されていない.磯焼け域にウニが何故多数生息するのか,近年になって植食魚類の食害が何故顕在化したのか,かつてはウニを駆除することによって海中林は回復したのに現在では何故回復しないのか,これらの問題は磯焼けの原因を海域ごとに個別に探るだけでは決して解明できない.生物と環境との関係を認識する方法論の問題であると私たちは考える.

 私たちは,磯焼けを「産業的な現象」であると同時に「生態学的な現象」であると規定する(水産学シリーズ120).したがって潮下帯岩礁域を,海藻群落を生産者とする岩礁生態系と捉え,磯焼けを無機環境の変化によって海中林から無節サンゴモ群落へ生物群集が変化することと認識し,その変動機構の解明が重要であると考える.無機環境の変化は,群集を構成する個々の種に対して異なった影響を及ぼすであろう.また無機環境は,一過性の極めて偶然性が高い変化から平均値の偏差で現される必然的な変化までを含む.それら無機環境の変化を認識し,岩礁生態系の生物群集構造の変動として磯焼けの生態学的理解を深める作業が今後とも必要となると思う.
 本書は,磯焼けの発生,磯焼けの持続,修復技術の3部からなる.磯焼けの発生機構においては,海洋物理学の最新の知見にもとづいて海況変動予測を行う一方,海中林の消滅と回復に関わる無機環境要因を生理生態学的に検討して栄養塩の重要性を指摘する.また,海中林と無節サンゴモが生存戦略として化学物質によってウニの発生を相互に制御する最新の知見を紹介する.磯焼けの持続機構に関しては,海藻群落と対応するウニおよび植食魚類の生活史と生活年周期に関する最新の知見および陸域の開発による海域への濁水の流入による海中林崩壊の事例をともに初めて紹介する.海中林の修復技術においては,磯焼けの研究と修復技術の歴史から生態学的理解の重要性を論じ,新しい知見にもとづく磯焼け診断の方法を提案する.また,磯焼けの原因を海中林成立条件と環境との比較によって論じ,地球温暖化の事態を前提とする新しい海中林修復技術を提案する.本書が岩礁生態学を構築し,沿岸漁業の発展に寄与できることを心から願っている.
(以下省略)
   平成20年7月
                谷口和也・吾妻行雄・嵯峨直恆
 
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