|はじめに|
 安定同位体比は,自然界の物質循環を解析するための指標として,生態学,海洋学,陸水学などの研究で有効に利用されてきた.水産学の分野でも生物の捕食−被捕食関係を介しての食物網内の物質輸送を解析するための共通指標として広く活用されるようになった.例えば,これまでは,捕食者と被捕食者の関係を個々につなぎ合わせることで食物網解析が行われてきたが,安定同位体比,特にδ13Cとδ15N(それぞれ炭素と窒素の安定同位体比)を用いることによって,食物起源まで遡って,物質輸送の経路を推定することが可能となった.また,胃内容物の解析では,スナップショット的に,ある時間断面の利用餌生物しか知ることができなかったが,安定同位体比分析により,時空間的なつながりをもった情報を得ることができるようになってきた.そのため,安定同位体比分析は,水圏生物の回遊経路や移動様式を推定したり,陸域と水圏をまたがるエネルギーの流れを知るための強力なツールとしても利用されている.
 近年,資源生態学分野や増養殖の分野で,安定同位体比分析が積極的に取り入れられるようになり,研究の対象生物は,市場価値の高い魚介類だけでなく,微細藻類,プランクトン,ベントス,海藻類,海鳥類,ウミガメ類,クジラ類,さらには陸上哺乳類など多岐にわたっている.高価な安定同位体比精密測定用質量分析計も,多くの水産系研究機関や大学に導入されており,安定同位体比分析を水産研究に応用するための基盤は充実してきたものと思われる.しかし,ソフト面に関しては,安定同位体比分析の問題点(前処理方法・測定部位による違いなど)や水産資源研究・増養殖研究での具体的な応用例を総括した出版物が見当たらないため,これから新たに安定同位体を用いて研究を進めていこうとする研究者を躊躇させてしまっているのも現状ではないかと思う.

 本書は,これから安定同位体研究を始めようとする人たちの導入書としての役割をめざしている.まず,1章では,安定同位体比分析がどのようなものであるかを歴史的経緯を含めて解説し,分析上の問題点を紹介する.また,2章では,食物網解析に応用する上で,基本となる濃縮係数に関して詳細に検討した.次に3章では,餌料源を推定するための数学モデルを解説し,基本的なデータ解析の理論と応用方法を紹介する.第4章以下では,具体的な事例を紹介し,安定同位体比分析を用いることで,どのような新たな情報を得ることができるかをわかりやすく解説することを心掛けた.4章から6章は餌料源推定の具体例を示し,河口域のアサリ(4章)および干潟域の鳥類(6章)の餌料源を数学モデルにより推定した応用例,5章では,解析事例の少ない硫黄安定同位体に関する応用例も紹介する.7章から8章では,資源生態学への応用研究として,イワシ類の種間比較,海域比較および発生群判別への応用例(7章),海域生態系と陸域生態系のつながり(8章)に関する解析事例を紹介する.
 9章から11章では水圏生物の移動・回遊を推定するツールとしての応用例をスズキ仔稚魚(9章),海鳥類・海亀類(10章),クジラ類(11章)など異なる生態特性をもつ生物群で紹介する.さらに,標題にもあるとおり安定同位体スコープを通して海の生き物の生態を解説する点にも主眼を置いており,一般の読者が興味をもち,理解できるように,丁寧な用語解説などを通してできるだけ平易に内容を伝える工夫をした.本書を一読することで,安定同位体比に関して少しでも理解を深めていただけることを期待している.
   平成20年3月
                    富永 修
                    高井則之
 
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