わが国は海に囲まれた森の国であり,森と里と海の各生態系が川を介して密接につながることで,流域,河川,沿岸域の環境が維持されてきた.ところが,近年の急速な人間活動の増大とそれに伴う自然環境の改変は,個々の生態系を変質させ,さらに生態系間のつながりを分断した.そのために水圏の生物生産の仕組みと生物多様性が損なわれ,川や海において深刻な問題が表面化している.流域をめぐる豊かな地域社会の構築には,森,里,川,海の健全なつながりである「連環」の回復と自然環境の再生が不可欠である.近年,沿岸域の環境を守るために,漁民などによる植林運動が盛んに行われるようになった.このような社会運動に触発される形でいくつかの研究拠点が構築され,新たな研究の展開が始まっている.本書は,森から海までのつながりを科学的に解明する第一歩として,陸域が沿岸域の生物生産に与える影響について知見を整理し,新しい研究の方向性を探求することを目的とした.
 口絵1のとおり,陸域は森林,耕地,都市などから構成され,そこからは(1)天然有機物,(2) 栄養塩類,(3)土砂,(4)人工物質などが河川に流入し,物理・化学・生物的な過程によりサイズや態を変えながら河口へ輸送される.流域を通過し海へ至る物質の組成,量,時間的な供給の特性は,人間活動によって著しい影響を受ける.このような流入物質は,魚介類の成育場として極めて重要な役割を果たす河口・沿岸浅海域の生物生産に,直接的な作用を及ぼす.1980年代から続く沿岸漁業漁獲量の減少や,クラゲ類の大発生などの異変は,陸から海へのつながりが決して健全でないことを示している.
 1〜4章において,陸域と沿岸域の接点である河口域の構造と機能に焦点をあてた.1章では仔稚魚成育場としての役割の重要性,2章では陸上有機物の物理・化学的挙動,3章では仔稚魚による陸上有機物の利用実態が解説される.4章では陸上有機物の河口から内湾域への広がりと底生動物による利用が取り上げられる.5〜7章では,森林と河川・河口域における生物生産の直接的なつながりについて,最新の研究成果が報告されており,生態系における森から海までの連環を見ることができる.とくに5章では,森林で生産された有機物の沿岸域への供給量が推定され,6章では5章と同じフィールドにおいて,クロガシラガレイ未成魚による森林有機物の利用が定量的に示されている.7章では,森から海までの連環の仕組みを解明する研究プロジェクトである「天塩川プロジェクト」の成果が紹介される.8〜10章では,人による自然の改変が,水圏の生物生産システムにどのように影響するかを取り扱う.わが国のほとんどの河川でダムなどにより河川流量が管理されているが,8章では地道な基礎研究とモデルにより,生物生産と生物多様性に対する流量管理の影響が示された.9章のダムと土砂の問題は,森から海までのつながりを考えるうえで避けて通れない課題である.10章では熱帯域の魚付林ともいえるマングローブの植林が,沿岸域生態系の安定化と魚類生産に与える効果を紹介する.温帯域で森林植林と沿岸生物の関係を科学的に検証することは容易ではなく,マングローブ植林の研究は注目に値する.
 今後の課題を以下にまとめたい.すでに述べたように,陸域から海へ供給される物質として(1)天然有機物,(2)栄養塩類,(3)土砂,(4)人工物質が注目される.本書では(1)の陸から供給される有機物に焦点を当て,生物による利用実態が報告された.有機物には溶存態,懸濁態などの形があり,河川から沿岸域へ運ばれる過程で複雑に変化する.難分解性のセルロースなどを含む陸上有機物は,微生物食物連鎖などを通して溶存化・無機化され,海域の生物生産システムに組み込まれる.その機構と生物生産への貢献の解明は(1)(2)において重要な課題である.また(2)では,窒素,リン,ケイ素に加えて,鉄などの微量物質の挙動と生物による利用の研究がブレークスルーとなり得る.(3)では,放置人工林,水田,都市などから流れ込む土砂の水域生態系に対する影響に着目する必要がある.ダムにより土砂が止められ海岸線が後退する一方,粒径の細かい浮泥だけが流下して,水圏の泥化の進行が危惧される.本書では9章で象徴的に触れたが,今後の基礎的な研究の成果が待たれる.(4)は本書では取り扱わなかったが,陸域や海底に蓄積された内分泌攪乱物質,ダイオキシン類などの影響は,今後も長期間継続するであろう.(1)〜(4)を通して,人によって排出される生活・産業関連物質の管理は,最も重要でありしかも困難な課題である.

 本書は日本水産学会のシンポジウムとして初めて森林研究者の協力も得て,森から海までを一体的に取り上げその重要性を示したものといえる.今後,新しい学問領域として大いに発展することを期待したい.なお,本書のいくつかの章で,起源有機物の特定や食物関係の研究における安定同位体比分析の有効性が紹介されている.森から海までのつながりの研究では,分野横断的な広い視野とともに,新しい研究手法の導入が重要な鍵を握る.安定同位体比分析の原理や方法については水産学シリーズから発刊予定の159巻「水産動物の生態研究における安定同位体比分析の現状と展望」(仮題)をご覧頂きたい.
  
山 下  洋
田 中  克