|あとがき|

 私とクラゲの出会いは,約 35 年前の高度経済成長期に入った 1966 年の春のことであった。この時期は臨海地域の拡大に伴い,鉄鋼,造船,石油化学工場のほか,火力,原子力発電所等が次々と建設され,重厚長大型の産業が著しく発展した時期でもあった。これらの中で,特に冷却用海水を多量に使用する発電所の操業にあたって,難解な問題の一つに,不意に取水口に来襲して,発電を停止させるミズクラゲの流入事故であった。これらの事故を予測したり,防排除対策をたてる場合に,先ず,フィールドにおけるクラゲ生態に関する基本的な知見が必要となる。しかし,古くから海の厄介者とされているクラゲの調査研究を引き受ける機関や関係会社は,当時何処にもなかった。ところが,私が所属していた福井県水産試験場は,予算が乏しいこともあって N と K 電力からの委託研究の一つとしてクラゲ調査を受諾した。幸か不幸か,プランクトンを担当していた私に調査の遂行が命ぜられた。

 クラゲといえば,学生時代の教科書に,世代交代の事例として発生環の図があったことを思い出した以外に知識もなかったので,この方面の専門家や指導者を懸命に探したが,ついに見つけることはできなかった。そこで,(1)クラゲはどこで生まれ,どのように成長してから一生を終えるのか。(2)海中のクラゲはどのような活動(運動)をしながら生活しているのか,というごく素朴な疑問 2 点に的を絞り,その実態を明らかにしようと試みた。

 ところが,上司の判断により水産試験場の業務とされたにもかかわらず,産業的な価値のないクラゲを勤務中に調べたり,調査船を出すことについては,“あのような動物を調べて一体何の役に立つのか”という非難や陰口が後を断たなかった。やむを得ず,他の調査(例えば水質調査)の際に乗船し,そのついでにクラゲ採集をするというやり方で試料収集を行うしかなかった。また,理解者もなく,しかも冷ややかな雰囲気の中では,実験することは勿論,文献を調べたりすることもできなかった。そのため,職員の帰宅後や土,日曜の限られた時間帯にのみ,クラゲ研究とその資料整理にあてるというハンデキャップを背負いながらの毎日で,十数年の歳月が過ぎた。人目を忍んで行ったポリプ,エフィラの飼育や文献の翻訳,氷とビーカーにストップウオッチだけの粗末な器材のみで,真夜中に決行した温度と拍動との関係の実験,子供達を寝かせた後の僅かな時間内で,数百枚に及ぶイタヤガイ殻に付着したプラヌラや初期ポリプの確認等苦しかった当時の研究生活が,昨日のように思い出される。このような私の研究生活は,おそらく,第一線で活躍しいている公立や外国の技術者,研究者達には理解し難いものであるに違いない。ともあれ,幾多の苦心,苦労を重ねて得られた私の仕事が,ある学会誌に掲載された時,国内はもとより国外の研究者からの問い合わせが相次ぎ,思いもよらぬ反響に驚くとともに,世界にはこれほど多くの人たちが関心を寄せてくれていることを知り,大いに勇気づけられた。後で判ったことだが,私の調査対象とした若狭湾のミズクラゲの分布密度は,最大で 596 個体/m3 (傘径 6〜7 cm),エフィラ,メテフィラで 400 個体/m3 以上であり,これらの値は,今まで記録された中では最大値であることも判った。つまり,フィールド調査としては,最も恵まれた水域で研究ができたことになり,これはむしろ幸運であったといえるのかもしれない。
 ところで,最近,クラゲの異常出現は,沿岸海洋の健康度を計るバロメーターとされ,国際的にも深い関心が払われるようになった(例えば,カナダの M.N.Arai 博士による“沿岸海域の環境変化とクラゲの異常出現(総説)”,2000 年 10 月講演)。もはや,クラゲは昼間堂々としかも関係者の連携のもとに前向きで,そのメカニズムを解明していかなければならない時代となった。今回,恒星社厚生閣のご好意により,旧著『ミズクラゲの研究』にその後の新しい知見を加え,今まで謎とされてきたアンドンクラゲの発生と生態について上野俊士郎教授に解説をお願いし,更に足立 文研究員によるクラゲの採集方法,飼育法も追加され,特色あるクラゲ読本になったと信じている。今後,クラゲに関心をもったり,調査研究に従事する人達の参考書として,本書が広く活用されることを望んでやまない。
以下省略
     平成 15 年 2 月
 安田 徹

 
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