|はじめに|

 魚類の聴覚に関する研究は,かつて感覚生理学の側面から聴覚機構について多くの研究者によって数多くの業績が残されてきたが,魚は音を感知する能力をもたない,あるいは音の方向感はないと信じられていた時期もあった.
 しかし,その後の研究成果の蓄積により,他の陸上動物と同様に,魚類の聴覚能力についてのかなり詳細な部分まで明らかになってきた.特に魚特有の器官である側線や鰾の聴覚における役割などについても明らかにされ,水生生物であるが故の興味深い知見も多く得られている.
 一方,最近のわが国漁業学系研究者の間でも,漁具の挙動と魚の行動の関係を明らかにするために,各種魚類の生態およびその感覚能力を把握する必要性が生じてきた.その一環として聴覚能力に対する関心も深まり,さらには音響を利用して海の中で魚群行動を自由に制御しようとする壮大なマリンランチング(海洋牧場)計画も一部実用化の域に達するなど,この分野における研究成果に対して関係機関の期待が深まっている.
 このような情勢の中で先人により確立された各種聴覚能力の測定手法を用いて,再び各研究機関の方々によって聴覚閾値や音源定位能力の測定が各種の有用魚種を中心に進められつつある.
 魚類聴覚に関する研究は,従来は主として欧米を中心として精力的に実施されてきた.わが国においては 1976 年の沢正博氏(当時北大:現札幌医大)によるキンギョを用いた電気生理学的研究,および心拍間隔を指標にした測定手法による聴覚閾値測定と阿部晴子氏(当時東大)によるコイの各種聴覚能力の測定が嚆矢であった. その後やや空白期間もあったが 1980 年代後半から青木一郎氏(東大)によるコイの音源定位に関する行動学的研究,石岡宏子氏(南西水研)らによるマダイの聴覚閾値に関する研究が続いた頃から,わが国における魚類聴覚能力研究において実験手法の確立がなされた感がある.これ以降 各研究機関により各種魚類の聴覚能力の測定が積極的に進められている.
 このように近年,急速に進展がみられた魚類聴覚に関する研究を総括し,聴覚能力測定技術の問題点を明らかにする目的で 1996 年 10 月に日本水産学会主催で「魚類の聴覚−内耳と側線−」(企画責任者 添田秀男)と題するミニシンポジウムが九州大学で開催された.このシンポジウムでは発表時間および演題数が限定されていたため一部研究者のみの発表に止まったが,これを契機として,わが国における魚類聴覚研究の現状をとりまとめ,これらの成果が次世代の研究者の指針となることを期待して世に送り出す計画がもち上がり,各分担執筆者の賛同を得てようやく本書を刊行する運びとなった.
 本書の構成は第 1〜3 章で基礎知識としての聴覚器官の構造・水中音の物理特性・各種魚類聴覚能力の測定手法などの解説から始めている.この部分は専門外の分野で若干難解な個所があるかも知れない.しかし難解に感じる部分は読み飛ばして進んでいただいて,その後の理解度あるいは必要性に応じて再び読み返して知識を深めていただければ幸いである.
 第 4 章ではわが国においてこれまで聴覚閾値の測定が行われた各魚種の測定例を掲げた.各執筆者による実験手法は多様であるが,手法別の分類は敢えて行わず魚種別に記述した.各研究者によって,それぞれ創意工夫をなされた部分があり,読者諸賢もこれらのご苦労を研究の糧としていただきたい.さらに諸外国における測定例も紹介されているので大いに参考にしていただきたい.
 第 5 章では漁業者が経験的に体得している魚の聴覚能力を応用した巧妙な漁法の紹介をはじめ,現在実用化に向けて計画が進められつつある海洋牧場における例,さらには放流魚に音響馴致を施し,成魚になるまで水中音でその行動を誘導・制御しようとする壮大かつ夢のある計画が紹介されている.
 本書を読まれて魚類の聴覚能力に興味をもたれる方々,あるいは実際に自分で実験してみようと試みる方々が多く誕生すれば出版を企画した編集者として甚だ幸いである.
 なお 1,2,3 章の参考文献は章末に掲げたが 4,5 章は各項末に掲載した.その方が読者に利用しやすいと考えたからである.
 本書の主旨に賛同し貴重な時間を割き,執筆にご協力いただいた各位に厚く御礼申上げるとともに,これらの基礎研究が今後の実用化に向けてさらに進展され,21世紀のわが国水産業の発展に寄与されることを切に念じている.

平成 10 年 3 月
編集者代表 添 田 秀 男

 
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