|はじめに|

 本書の題名に掲げたカキ(oyster),ホタテガイ(scallop),アワビ(abalone)は熱帯から亜寒帯まで広く分布し,多くの国々で増養殖が行われている.世界におけるその生産量は貝類のなかではイガイ(mussel)とともに群を抜いており,それはこれらの貝類の生物学的特性が増養殖対象種として優れていることもさることながら,何よりもそれぞれの種がもつ独特の魅力的な風味が,古来人類をしてその生産への努力をさせてきた結果ともいえよう.
 わが国においても,マガキ,ホタテガイ,エゾアワビの種苗生産と育成に関して,多くの研究者や漁業者が基礎研究と技術開発を積み重ねてきた.そして今日,その優れた生産技術はいろいろな問題を抱えながらも,国内はもとより国外でさまざまな貝類生産に通じる技術として高い評価を受けているといえる.
 しかし,近年の急速な化学技術の発達により,人間の生産活動と生活は質的および量的に大きく変化しつつある.もちろん貝類の増養殖もその影響からのがれられない.食生活の変化は,貝類生産においても安定生産はもとより,これまで以上に生産物の質的な向上と多様性を要求するであろう.
 飼料のすべてを天然のプランクトンや海藻に依存しているこれらの貝類の増養殖は,陸と海の接点でもある沿岸生態系のなかで,環境にも貝類自身にも健全な生産体系を構築することが一層必要とされている.またバイオテクノロジーの発達は,貝類においても従来の育種学的手法による優良品種の作出を,飛躍的に進める可能性を示している.
 このように,生産性の追及においては一定の水準に到達したわが国の貝類増養殖技術が,一つの転機をむかえていると考えられる. そこで貝類生産の次のステップへの発展を探るうえで,先ず本書の第1章では,わが国におけるマガキ,ホタテガイ,エゾアワビの増養殖技術の発展の経過を,それを支えた科学的な知見とともに総括した.第2章以下では,これら3種の貝類をできるだけ中心に扱いながら,貝類の増養殖に関連が深い幾つかのテーマについて,それぞれの分野の最新の知見を記述した.
 すなわち第2章では,増養殖を考えるうえで基本となる遺伝育種学的研究の最新の情報を,水産資源の遺伝的管理の問題を中心にまとめるとともに,染色体操作によるマガキの倍数体の作出とその生物学的正常について述べた.
 第3章では,貝類の増養殖に関係の深い諸生物現象の解明という視点から生理活性物質をながめるとともに,貝類の貯蔵エネルギーと貝類特有の呈味の主体であるグリコーゲンとエキスの代謝についてその特性を述べた.
 第4章では,増養殖の場において貝類が自己を維持していくうえで必須である,体内に生成あるいは侵入する異物を排除する生態防御機構と,外敵生物の防御など貝類の生態に深く関連する貝殻形成ならびに貝殻に穿孔する多毛類について詳述した.
 最後の第5章では,有史以来高級な嗜好品として独特の食文化のなかで愛されてきた貝類の,食品としての客観的な化学的特性を述べ,そして貝類の食文化をめぐる歴史的ないくつかの話題を私なりにまとめてみた.
 本書が扱った内容は,マガキ,ホタテガイ,エゾアワビの増養殖とそれに関連する諸研究分野を必ずしも網羅したものではないが,貝類を含む海洋無脊椎動物はまさに多種多様であり,なかには人類がまだ思いもつかない有用な生物学的,生化学的特性を秘めている種があるであろう.それらを含め21世紀の世界の生態・環境の問題を考えるとき,水産植物とタンパク質生産の関連においても,これらの生物の重要なる役割を無視することはできないと考えられる.そのためにも,本書がいくらかでも役立つであろうことを信ずるものである.
(以下省略)
1994年11月12日
野村正

 
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